永遠の三日月

 12月になるとメールやSNS、ブログなどに必ず書く、書かれる言葉がある。
「気が付けばもう年末の12月である」という一文である。
 私自身も毎年恒例で少しダサいなとは思うのだが、12月になって正直な気持ちを吐露すると、この言葉が一番しっくりくる様な気がする。

 12月が年末で1年の終わりということもあるのだろうが、多くの人が12月の到来と1年を振り返る気持ちを以て、「光陰矢の如し」と考えているのだろう。「光陰矢の如し」とは、月日が過ぎるのは矢のように速い事の例えであるが、色々あった一年間を振り返ってみれば、あっという間に過ぎたと感じる人間の感情の本質を表す言葉かもしれない。

 特に弊社の場合は決算も12月なので、年末と年度末が重なっていて、12月は1年の終わりという感じが強い。年始には一年の計を立てて新年度に取り組むのであるが、12月には「あれもできなかった。これもやり通せなかった」など、後悔の念に駆られることが大半で、正直なところ、12月を大満足で過ごした過去の記憶はない。常に足りなかった自分を反省し、叱咤し、新たな一年の計を巡らせることの繰り返しだったように思う。

 私の基本的な考え方は、満たされないことが重要であり、満足することは訴求の不足か自己欺瞞であるとしてきた。満月のように満ちることを願いながら、「永遠の三日月」でいる。例えば今日は3つできた事があったが、4つやるべき事が見つかったというような、満たされることのない人生を理想として生きてきた。

 満たされることのない人生を追うとは、かなり偏屈な考え方と思われるかもしれないが、自分が増長しないためにも決して満たされないように心掛けている。それは自分が持っている、経営者として追わねばならないと決めたものに関連している。これまでに数多くの経営者と出会ってきたが、成功と失敗の事例を見続けてきたとも言え、自分なりの経営成否の法則などを持っている。

 最初のセオリーは、経営で「金を追うものは、金に追われる」ということだ。
 経営の手段としてお金を儲けることは悪いことではないが、経営の目的が金儲けだけに終始すると、最終的にお金に追われてしまう例を数多く見てきた。やはり経営の目的には社会性やイノベーションなどが無ければ、大きな成功を生み出すことはないと思う。

 次のセオリーは「名誉を求めるものは、名誉に呑まれる」ということである。
 起業の揺籃期が過ぎ、少しずつ成果が現れてくると経営者は、新聞、雑誌、インターネットなどのメディアに取り上げられ、講演を行って著名度が高まり、委員や理事などの名誉職などの話が持ち上がってくる。人には名誉欲があるので、それを満たしたくなる欲望が大きくなりすぎると、本業をそっちのけで名誉を追う経営者が出てくることも実際の話である。そうこうしている間に本業よりもプライベートブランディングの方が重要になってきて、最後は本業が破綻したり、乗っ取られてしまったりということもある。名誉は結果としてついてくるもので、目的とすべきものではないのではないだろうか。

 そして最後の3つ目は「夢を追うものは、夢に潰される」ということである。
 夢という言葉は美しく、人々はその言葉に大きな価値を求める。私も夢を追うこと自体に否定的な訳ではない。夢の実現という目標を定めて、その達成に向けた日々の錬磨を繰り返すことは必ず人を成長させる。しかし、ここでよく考えたいのは、夢というのは見えるものであり、見えるとは有限であるということだ。「大きな家に住みたい」「立派な外車に乗りたい」などゴールの形が見えているのが夢であり、見えているからこそ達成感があるのだといっても良いだろう。夢を達成するとは成果を手にするということであり、人は一度、手にした成果を手放したくはないという保守的な気持ちに捕らわれるものだ。手にしたものを手放したくなくなるのは人間の本性といっても良いだろう。ということは夢を実現することは、己の成長の停止に繋がらないかと考えてしまう。達成した夢を手のひらから捨てて、より高みのある夢を追い続けることができる人がどれほどいるのだろうか。

 人は満たされてしまうと現状を守りたくなるのである。そして、それは継続的な成長を阻害する要因になってしまうと考える私が悲観的すぎるのか、それは分からない。満たされることが怖い私は夢ではなく、「理想」を追い続ける自分でいなければならないと考えている。切磋琢磨し、一段理想に近づいたと思った瞬間、さらに上の理想が見えてくる。また一段近づいたかと思えば、次の一段が見えてくる永遠の追いかけっこである。普通に考えると、達成感のない、焦燥感に捉われた人生に映るかもしれないが、私は少なくとも経営者である限りは、夢ではなく、理想を追わねばならないという覚悟を持つべきであると考えている。

 それが冒頭に述べた「永遠の三日月」という考え方である。
 いつか天に輝く満月となりたいと願いながら、自分に足りない、欠けている部分を探し続ける人生は、決して満たされることもなく、マゾヒスティックな人生と思われるかもしれないが、私には一番適した生き方だと感じている。三日月は半月に、半月は満月に満ちていき、満月になれば、後は欠けていくのみである。だから自分は永遠の三日月で良いのだと自分に言い聞かせている。「今日は3つできて、やるべきことややりたいことが4つ見つかった」という生き方の繰り返し。2つしかやるべきことが見つからなかった時には、自分の謙虚さの欠如を反省し、可能な限り課題発見に努める。この満たされることのない日々の繰り返しは、一見、長いように思われるが、実は体感的な時間の速度は速く、理想を追いながら、日々の課題発見・解決に没頭していれば、一年などあっという間に過ぎるといっても良いだろう。将に冒頭の「光陰矢の如し」である。

 2023年も理想を追い続けながら過ごしてきた。
 小さな成功も沢山あったし、大きな失敗もあった。見えていなければならない理想を見失いそうになることもあるが、そのような時は原点回帰である。ダーウィンは進化論で「大きな者、賢い者、強い者が生き残るわけではなく、変化にいち早く対応できるものが生き残る」と言った。敢えて逆説的だが、経営者は変化に素早く対応することも重要と認めながらも、困難な時に回帰すべき原点を持つ者が最も生存確率が高いように思う。この原点は生きることの基本と言い換えることもできるが、得てして、人間は基本という言葉を曖昧にしがちではないだろうか。

 商談でも日常の会話にはよく、「基本的には~」というフレーズが使われる。私は決して意地悪や偏屈な訳ではないが、基本的を連発する方には時々尋ねることがある。「あなたが仰っている基本的という言葉の基本とは何ですか」と。この問いには大方の人が答えられない。何となくイメージの括りで基本的が定義されているのであり、基本的という言葉の中に具体的な基本はほぼ無い。しかし前述のように、困難に直面した時、回帰すべき基本が曖昧模糊なものであれば、きっと困難を克服することはできないだろう。だから明確な基本を持つべきである。

 私は2024年も理想を追いながら、自分自身の基本(原点)を常に明確にしながら過ごし、経営者としての理想を求め続ける「永遠の三日月」であり続けたいと願っている。それは経営だけではく人生においても同様で自分が死を迎える瞬間まで、明日をどう生きるかと考え続ける自分でありたいものだ。

 今回は少し話が拡がり過ぎた感があり、自説の押し売り感があったかもしれないが、ご容赦願いたい。自分自身にもう一度基本を叩き込まねばならない緩みを感じたので、この場を借りて自分に言い聞かせる機会とさせて頂いた。

 本年もお世話になりました。
 志士奮迅は来年も続きますので、倍旧のご愛顧をお願い申し上げます。
 良いお年をお迎え下さい。

2023年12月 抱 厚志