「学問」は「学ぶ」+「問う」である


人の助言に耳を傾け、貪欲に学ぼうとする姿勢である。
会社のトップと言う組織の頂点に立って初めて分かる事は
「自分の上にはもう誰もいないと言う事」ではないだろうか。
当たり前の事だが、これを自分の事として腹の中に落とす事はとても難しい。
誰にも恩師、師匠、上司、先輩というべき教えを請うたり、アドバイスをもらったり、
時には叱ってくれる存在がいるものではないかと思うが、トップに立てば、当然、
自らが決断し、自らが責任を取り、強烈な経営の孤独感を味あわなければならない。
往々にして教えを請うのではなく、教えを垂れる方に回るものだ。

しかし人間は自らが未完成で不十分なことを自分自身が一番知っているので、
自己と立場の矛盾に苛まれ、場合によっては叱ってくれる人の不在に
苦悩しなければならない時もある。
これまでの同僚とは立場や関係が変わるし、それなりの威厳、
影響力を維持するための背伸びを求められる事もあるだろう。
利害関係に立脚した阿諛追従の輩に囲まれ、気付かぬうちに自分を錯覚過信し、
周囲や自分の立ち位置が見えなくなる経営者も多々見受けられる。

だが自分が未完成だと思うのであれば、
組織上のまたは社会的上下関係に捉われることなくより一層、
全方位的に助言を求める姿勢を強化すべきであろう。
この事は殆どの経営者が役職に就任した初期には心に銘じている事であるが、
時間の経過と共に薄れて行くものではないだろうか。
経営者には見えていえても、従業員には見えないことがたくさんあり、
「社員には分からない」「経営者にしか理解できない」と言う観念が自分を支配してしまう。
しかし本当にそうなのであろうか?
自分に上司がある間は上司の指示に耳を傾ければよい。
言われた事を完遂するのが部下の役目である。
組織の頂点に立てば指示を受けることもないし、全て自分次第である。
だから経営者はより多くの情報を収集し、結論を導くためにこれまでの何倍も自己で反芻しなければならないのである。

上に立つものほど、周囲の助言や意見、
特に経営者である自分にとって耳の痛い話に注目しなければならない。
もちろん最終的に決断するのはトップの権利であり義務である。
しかしその決断は独善的なものであり、小局的なものであってはならない。
立場が高くなるほど、聞く姿勢は低くありたものである。
裸の王様は所詮、裸であり、どんな言葉で取り繕っても裸では最後に風邪をひくし、
見場の良いものではない。

「良薬は口に苦し」。
これはどんな経営者も頭では分かっているが、良言に耳を傾けることは心地良くないものであり、
経営者にとっては自己否定される非常な苦痛であるが、実はここで経営者の器が試される。
経営者は学び続けなければならいのであり、学びの一番の実践方法は人から学ぶことであろう。
経営者にも成功する人と成功しない人がいるが、成功する経営者の共通項は
「人の助言に耳を傾け、良いと思ったことは取り入れ、間違っていると思うことは改め、
常に理想の形を求め続けるため学ぶ姿勢を崩さないこと」であるように思う。
経営者の重要な仕事の一つは、「人と会う」ことであり、
伸びる経営者は「会い方」に目標があり、人との接点や時間の密度が濃いのだろう。
多数の人とあって、たくさんの時間を出会いに投下するのであれば、
その時間も密度が濃い方が幸せである。
その密度を濃くするためには、立場に関係なく「相手から学ぶ」と言う姿勢を崩さないことである。
どのようなシチュエーションであっても、それに向き合う姿勢によっていくらでも学ぶことはできる。
要は学びのトリガーは自分にあるということである。
しかし経営者は仕事柄、アウトプットすることが多い。

しかし人との接点の中でアウトプットし続けることは、自分が枯死してしまう可能性を否定できない。
自分の成長曲線を維持するためにも、どんなシチュエーションであっても学ぶ貪欲さが必要であり、善言には耳を傾け、助言として受け入れる大度が必要なのではあるまいか。
すなわち組織の長には「聞く能力」が重要であり、「行う能力」が必須である。
例え部下であれ、部外者であれ、年下の者の言葉であっても、
それを自分の状況に置き換える能力が求められる。
組織の長は誰よりも「聞く人」でなければならない。
聞く力を有した長を輩出する組織は、弾力性に満ちていて、成長し続ける。
経営者が100年企業を目指すのであれば、聞く力を企業のDNAとして育んで行けば良いだろう。
それは創業者カリスマからの脱皮であり、組織の民主主義であり、法人としての自立である。
最近のイスラム圏の独裁者たちの現状を考えれば、カリスマの限界を感じざるを得ない。
組織を属人化せず、コアコンピタンスを法人のものとするための第一歩は
経営者の「聞き、学ぶ姿勢」と言える。
これまで書いたことは当たり前のことであり、経営者諸氏には釈迦に説法かもしれない。

しかしもう一度、自己を客観視してもらいたい。
どこかに初心を忘れている事はないだろうか?
経営者と言う立場にこだわって善言を退けている事はないだろうか?
自分を唯一無二の存在として周囲に強制的に認知させようとしていないだろうか?
経営者と言う立場に固執して、自分で最も孤独な存在にしていないだろうか?
こうしてコラム書きながら、まさに自分との格闘の連続である。書けば書くほど、
己の至らなさを痛感してしまう。

しかし人間は満ちれば欠けてしまうものだと思っている。
一番怖い事は、自分に満ち足りてしまうことであろう。自分の不完全さを知り、
あくなき成長への希求は人間の成長エネルギーである。
「学問」は「学ぶ」+「問う」である。学ぶことも重要であるが、
問うことがもっと重要であることがある。
自分や周囲に対して優れた問いを発し続けることができる人が本当の意味で
学びの貪欲さをもっているのではあるまいか。
問いを発する事で周囲に学びを与える事ができる。
その学びは相手の問いになり、その問いは助言と言う形で自己の新しい学びとなるものだ。
組織の長に立つものは「人の助言に耳を傾け、貪欲に学ぼうとする姿勢」を貫きたい。
孤独であっても決して孤立してはいけないと思う。

今回は1つのテーマについて長くなったが、筆者も重要な事だと思うので力が入った。
乱文は筆者の筆力のなさと言うことでご容赦願いたい。