勇気の無い現場には成長はないと言えまいか


生産管理の裏側にあるものを考察する(5)

12月に入って、あちこちで来年のカレンダーを頂く機会が増え、
否応無く年末の到来を感じる毎日である。12月は「師走」と書くが、この語源には諸説があり、「お寺の師匠」である僧侶が読経の為に東奔西走する「師馳せる月」が、
師走と言う言葉に置き換えられたという設が有力らしい。

まさに年末は1年間の締め括りとして、「師馳す」月であり、日々の多忙さが増し、
その真逆にある新年の静寂が、1年の終わりと始まりのコントラストを醸し出す期間であると言える。

昨今の激変、激動の日本では、季節の移ろいに風情を感じる場面が少なくなったが、
年末年始だけは特別であり、全日本人が己の時間の流れの中にブレークポイントを見つけることができる時である。

東日本大震災と福島原発の問題、タイの洪水などの天災、
ユーロやドルの不安に伴う円高の経済問題、ビンラディンやカダフィ大佐の死去、
中東のジャスミン革命など国際政治変動など、今年も大きな事件や変化があった1年だった。

IT業界に属するものとしては、やはりスティーブ・ジョブスの死去が大きなトピックだったように思う。
筆者はジョブスに対して、特に肩入れするものではないが、やはり彼の生き様には、
経営者として、時代を創って行く者として大切なものが凝縮されているように思う。

彼はまさにIT業界の「Beatles」ではなかったか。

彼の生前から、彼の発言のいくつかに心が動いたことがある。
例えば、

「前進し続けられたのは、自分がやることを愛していたからだ」
「終着点は重要ではない。旅の途中でどれだけ楽しいことをやり遂げているかが重要だ」
「絶対に真似のできない、相手が真似しようとすら思わないレベルの革新を続ける」

などと言う言葉が心に残っている。
上記の言葉は、裏返して自分に問いかけてみると良い。

「自分のやっている事を本当に愛せていないから、前進できないのではないか?」
「人生や事業の結果だけを求めて、そのプロセスを楽しむ事を忘れているのではないか?」
「経営者として、本当のコア・コンピタンスを見定めて経営しているか?」

こうして自問してみると、簡単に見えたジョブスの言葉の奥行きの深さに驚かされる。
筆者の場合、3つの問いに対して、完全にNOではないが、完璧なYESと言う事もできない己があり、そこに経営者としての弱い自分を感じてしまう。

しかしそこには、「まだ成長できる自分があるのだ」と言う自己の可能性を感じることができるのがありがたい。人間として自分が満ちてしまう事が一番恐いと思うので、欠けている己、すなわち満月ではなく、三日月や半月である己を知る事に安心感もあるという意味だ。

ジョブスの言葉をゆっくりと噛み締めると、彼が本当に志に忠実に行き抜いた人だったことが分かる。
彼は若くしてこの世を去ったが、彼は自ら定めた人生を謳歌し、
「ゆっくり急いだ」と言えるのではなかろうか。

生きている時はそれほど重要に思えない言葉も、その言葉を発した人が世を去れば、
急激に重みを増す言葉もあるのだと感じた出来事だった。

では「生産管理の裏側にあるもの」第5回目の話に入って行く。

6.実行とは勇気である。
筆者が好きな荀子の言葉がある。
『道は邇しといえども行かざれば至らず、事は少なりといえども為さざれば成らず。』
「どんな近い道でも歩き始めなければ到達しない。どんなつまらないことでも、やらないと結果は出ない」と意訳してみた。

荀子(じゅんし、紀元前313年? - 紀元前238年?)は、中国の戦国時代末の
思想家・儒学者である。
諱は況、字は卿。紀元前四世紀末、趙に生まれる。斉の襄王に仕え、
その稷下の学の祭酒に任ぜられる。
後に、讒言のため斉を去り、楚の宰相春申君に用いられて、蘭陵の令となり、
任を辞した後もその地に滞まった。
彼が唱えた「性悪説」では、人間の性を悪と認め、後天的努力(すなわち学問を修めること)によって善へと向かうべきだとした。
ちなみにこの性悪説に真っ向から異を唱えたのが、性善説の孟子である。

話が少し逸れたが、始めの荀子の言葉に戻りたい。

とてもシンプルな直喩であるが、物事を実行するための重要な道理を示す言葉である。
企業や組織において変革を引き起こす動きに対しては反作用がある。
これは政治や経済においても等しい事であるが、
集団には「変化を望む一団」と「現状を維持したい一団」が共存している。

現状を維持したい一団は「保守派」「守旧派」などと呼ばれるが、実は組織において、
大多数の人が潜在的な守旧派であるのが現実だと思われる。
現状でも組織やその中における自分の地位を維持することが出来るのであれば、
「変化は安住を棄損するリスクである」と感じる人が多いだろう。しかしいつの世でも、
時間は流れ、組織を取り巻く環境は変化していて、安住と考えている現状が、
実は大きなリスクの上に存在していることに目が向かない事が多い。

外部の環境が変化すれば、その変化に順応できない組織は実質的に退歩である。
志のある集団が組織全体の改革を始めようとするが、大多数の人は急な変革は望まない。
そこに組織としての「矛盾と軋轢」が生じる。

日本は良い意味でも悪い意味でも民主制なので、
改革は大きな守旧派と戦わなければならない。
作用を及ぼすための反作用と戦わなければならないのである。
「断じて行なえば、鬼神もこれを避く」と言うが、
改革を断行するためには、守旧派と戦う勇気が必要であり、
時にはこれまでに築き上げてきた価値観を破棄しなければ、前進できないこともある。
そういう意味で改革とは現状への疑問、否定から始まるものと言えるだろう。

特に何かを始めるには「開始」と「継続」が重要であり、始まらないものに終わりはない。
始点のないものに終点はないのである。
しかし始まりには、疑問、迷い、反発は多く、それらを凌駕する勇気が必要である。
「どれほど近い道も歩き出さなければ、ゴールに達しない。どんなつまらないことでもやらないと結果はでない」と荀子は言う。確かにその通りである。

前回にも書いたが、大きな判断の局面で「やる・やらない」と言う選択肢を、
「できる・できない」と言う選択肢に置き換えた瞬間から、人間は出来ない理由を探し始めるものだ。
改革を始める前に、失敗する理由を並び立てて、何も始めない場面が、
どれほど多く存在するのだろうか。

生産管理や現場の改善も同じである。

我々も経営改革のツールとして、生産管理システムの構築を行うが、
必ず出てくる人種が「総論賛成、各論反対」主義者である。生産管理システムを導入して、
経営の合理化を行う総論には賛成だが、それにより自分たちが変わることや負担が増える事は望まない(各論反対)人々であり、我々がシステムを導入する時に一番、苦労するのが、
この人種のモティベートだ。
この人たちは、自己変化することがリスクだと考えているが、
この世の中には多くのリスクが存在し、
「リスクを取らない事が一番大きなリスクであること」を本当に理解して欲しいものだ。

近い道でも歩き始める。

つまらない事と思ってもやってみる。

こんな勇気すら発揮できない現場には改革は永遠に起こらない。
勇気の無い現場には成長はないと言えまいか。

大阪知事選、大阪市長選でも投票率は上がった。選挙に行っても何も変わらな
いと決め付けていた大阪府民が、変革を望みながら一票を投じ、
まさに荀子の言葉を実践し始めたのかも知れない。