「満ちれば欠ける」

日々思うことの備忘録(1)
先月のブログに関西の計画停電は避けられない情勢であると書いたが、
事態は動いて美浜原発再開容認へ動く気配だ。
再稼動決定から本稼動まで7週間。
7月末の再稼動だとしても、それまでの電力事情の厳しさは変わるものではないが、
何となく関西では電力問題に関心が薄いように思ってしまうのは自分だけだろうか。
電力不足は今夏における生活不便はもちろん、今後の関西経済復興に与える
インパクトが大きいことをよく理解しておかねばならないだろう。

バブル崩壊後、全国的に長く好景気が続いたのが小泉政権の時だが、
その時ですら関西経済は市場規模縮小傾向にあった。
ここ20年間、関西の実質成長率は大きなマイナスである。
経済規模の縮小に伴い、関西に本社を置く企業、数多くのベンチャー企業が、
経済規模を求めて関東へ経営基盤を移して行った。
今でも東京の経営者会に参加させて頂くと、
関西から拠点を東京に移した企業経営者と出会うことが多い。

阪神大震災から不死鳥の如く復興を遂げた関西であったが、
その後の経済成長の低空飛行が続く中で、
比較的事業主体を移動させ易い業種や関西に依存しないビジネスモデルなどが、
可能性を求めて拠点を東遷させたが、
工場や主要取引先を関西に持つ製造業は簡単に関西を出るわけには行かなかった。

しかし電力不足の問題が長期化すると、これまでの低成長と相俟って、
今後、関西から撤退してしまう製造業は増えるだろう。実際、円高も恒常化しており、
海外や地方へ拠点を移す検討を始める企業は確実に増加している。
地代が高い。人件費が高い。物価も高い。市場縮小、経済低迷。
ここに電力不足が加われば、関西でのものづくりで収益を上げ続けることは
非常に困難だ。そういう意味でも、今回の電力不足問題は、
関西経済の今後を揺さぶる大きなリスクであると考えざるをえない。

原発の安全性には疑問がある。
十分なリスクの開示や対策が講じられているとはとても思えない。
しかし今を生き抜くためには、経済成長が必要であり、
そのためには安定した電力供給が必須である。
我々はこの矛盾に向き合わなければならないが、
その覚悟があまりにも希薄ではなかろうか。
大切な選択を迫られている自分や関西や日本は、
本当の意味で勝負をしなければならない時なのだと言い聞かせるべきだ。

先日、友人が新しいアパレル関係のブランドと
そのECサイトを立ち上げるための撮影会を見学させてもらった。
二人の外人モデル、カメラマン、照明、ヘアメイク、全体をプロデュースする友人など、
全部で12~3名のクルーでの仕事だったが、
新しいものを作り出すためのプロの仕事のあり方を存分に感じさせてもらった時間だった。

チームで動くプロの仕事には3つの大切なことがある。
こうしたアートなものを作るためには、
第1に「コンセプトがしっかり決まっていること」ことだろう。
コンセプトに基づいたゴールはクルーの間で共有されているが、
そのゴールに捉われて、現場やプロセスに柔軟性が無いわけではない。
カメラや衣装、ヘアメイク、モデル、プロデューサの激しい個性がぶつかりあう中に妥協は無いが、プロとしての相互理解や合意がある。
短くて激しくて、時には厳しく思える現場のやり取りの中にも、
一定の規律が存在し、簡潔でありながらも、
意思を伝えるためには十分すぎるコミュニケーションが展開される。
良いものを作ると言う共通の思いが、必要以上の感情の摩擦を引き起こさない。

そして第二に「時間にシビア」であること。
これは無駄の無い会話と時間に押しこまれている事を
前向きなエネルギーに変える意識ではないかと思う。
全体的な流れや時間配分が事前に叩き込んでいるのか、
進行形の作業の2つくらい先の準備が常に並行して進んでいる。
タイムキーパーが、各シーン毎の残り時間を淡々と伝えるが、
その間の時間の貸借の計算をしているので、現場の焦りは伝わってこない。
良いものを作るために存分な時間を使うこともプロであろうが、
与えられた時間やリソースの中で納得できるものを作り上げるのもプロである。
無駄を排除して、できるだけカメラとモデルが向き合う時間をたくさん作ることが周囲の役割であると言う共通認識が、時間の密度とその有効性を高めている。
全体像を理解していることは、行動に目的を持たせることになるので、
各自に委ねられた判断の独自性と自律を生む。
時間を強く意識することは、まさにプロフェッショナルの原点だと再認識した。

第三は「常にモチベーションを高い位置におくこと」であること。
撮影の現場ではとにかく誉め言葉が多い。それも具体的な内容で誉める。
自ずと全体のモチベーションは上がってくるし、
高いテンションの融合は思いがけない成果を生む場合があるのだろう。
また誉め言葉の間に出る厳しい意見やチェックがコミュニケーションのメリハリを生み、
心地の良い緊張感に包まれる。その緊張感の次に繰り出される誉め言葉の価値を高めて行き、モチベーションがさらに上がり、クルー全員が強烈なモチベーションで繋がっているのが分かる。
そのモチベーションの塊の行く先を決めるのが、プロデューサである友人だ。
まさにオーケストラにおけるコンダクター(指揮者)だが、
時に床すれすれからの視線で現場を見上げ、
現場の声も聞こえない遠くから観察している時もある。
たくさんの誉め言葉で周囲を高揚させ、小さな沈黙で拒否を伝える。
その集中力はすさまじく、とても中途半端に声を掛けることができるとは思わなかった。
友人の「これで終了です。」と言う宣言に一番安心したのは筆者かもしれない。

先日、東大阪にあるバネ製造業へ商談に行った。
長期の案件だが、当面は自分でフォローして、
機が熟したら担当の営業に引き継ごうと考えている。
最初から担当を同行させれば良いのだが、営業に敏感な自分でい続けたいので、
時々は初回訪問から、自分ひとりで行うようにしている。
同行営業は「部下の成長」を確かめることができるので楽しいが、
単独で新規のお客様に行くことは、独立した当時を思い出せて、
自分自身を原点回帰させてくれるような気持ちになる。
自分の成長を考えた時、今でも決して満たされている訳ではないが、
毎日毎月、地を這うようにハングリーな気持ちで生きていた、
創業当時の事は決して忘れてはならないのだと思う。

人生の困難に出会った時の原点回帰とは、野球で言う「素振り」ではないだろうか。
「無心になってバットを振るのか」、はたまた「無心になるためにバットを振るのか」、
50年以上生きて来てもまだ分からない。
しかし絶対的確信があるのは、どんなシチュエーションに置かれても、
回帰すべき原点がある人が強いと言うことである。
素振りの中から解決策を見つけることができる自分でいれば、大概のことは怖くない。
本当に怖いこととは「満ちれば欠ける」と言うことだ。
満月になると、後は半月に、三日月にと欠けて行くしかない。
満ちれば欠けることが始まると考えてよいのだろう。
僕自身は決して現状に満足をしないように決めている。
これは簡単な様だがとても難しい。

しかし人として生まれてきて、小さくとも企業のトップにいるのだから、
現状に満足することはありえないし、
あってはならないと言い聞かせることのできる自分でいたい。
「満ちる事」を目的として生きているのではない。
「欠けたもの」を見つけるために生きているのだと思い定めるには、志が必要だ。
変化しないことは成長の放棄である。
志が無ければ、時間の浪費である。
「生きる」とは変化し続けることであり、変化が止まることを「死」と言う。
自分の将来は五里霧中で分からないが、常に回帰すべき原点を失わずに生きて行く。

また別の日に友人の経営者と会食した時の話。
旨いお酒と肴もあり、話も弾んで、今回のお勧め本である
マイケル・ポーター「競争の戦略」ファイブ・フォースがテーマになった。
人間は尺度を持って生きるものであり、
言い換えれば相対的な自分のポジションを測りながら生きて行くものではないだろうか。
それを是とするのであれば、人は尺度の中で競争しながら生活していると言うことであり、
競争相手の選択は、自己の成長において、非常に重要な選択肢である。
人生の成功は、競い合う相手を見つけることができるか否かと言うあたりに要因があるのかもしれないとも思う。

友人との話は進んで、企業経営者の競争相手についての話になった。
自社の事業領域におけるライバルや経営者として、
またいつか「出藍の誉れ」を達成したいと感じさせて頂ける先達もいるし、
後進にもそう簡単に先を譲るつもりもない。
しかし競争には相対的尺度の競争と絶対的価値観の競争があり、
自分自身との競争を絶対的価値観の競争として重要視したい。
自分自身はいつも「自分の本当のライバルは昨日の自分である」と思っているので、
昨日よりは進歩した自分でいたいという気持ちが常にあると言うことだ。
ポーターの唱える競争の戦略では、
(1)競争業者、(2)供給業者、(3)買い手、(4)新規参入業者、
(5)代替品の5つをファイブ・フォースとして、企業経営の尺度とすることが唱えられているが、
これは前述の相対的尺度の競争であると思う。
ファイブ・フォースを外部環境要因とすれば、組織力やビジネスモデルなどの内部環境要因もあるが、経営者とはまず己に打ち克つと言う心的環境要因も大切だろう。
人とは外から崩れるよりも、中から壊れて行くことの方が多いものだ。
少なくとも昨日の自分以上に生き抜くと決めることが己の内部崩壊を防止する。

そのためには変化である。「自分のどこを変えたいかを決める」
今の自分に満足している人は少ないだろう。
まして現在の自分が最高であると考えている人はもっと少ないに違いない。
己が最高でないのであれば、まだまだ変化できる。

毎日、ベッドに入ってから眠るまでは順序が決まっている。
1時間ほど本を読み、今日一日に行った決済や決め事で間違ったことが無かったかを自省する。
明日の自分のどこを変えたいのかを決める。
そして眠る。

たった一日で自分を大きく変える出来事に遭遇することは、人生の中でも数あるものではないので、小さな事でも良いから、自分のどこを変えるかを決めるようにしている。
もちろん決めたからと言って、すべてが変わる訳でもなく、
そんなチャンスに巡り合えることの方が少ないと思う。
だから決めることも「電車の吊り広告から新しい熟語を3つ見つけよう。」
「会社にかかってきた電話を3本は取ってみよう。」
「嬉しかったことがあったら、その場で感謝の気持ちを伝えよう。」
など簡単な事ばかりだ。
別に周囲に変化を気づいてもらうことが目的では無いので、自分が納得出来る事を選んでいる。

会社や仕事やプロジェクトに「PDCA(PLAN・DO・CHECK・ACTION)」のマネジメントサイクルがあるのなら、自分の小さな日常にも同じようなPDCAがあるのだと思う。
「自分のどこを変えたいかを決める」とはPLANであり、毎日の小さな目標だ。
直感的にかつダイナミックに変わることは、とても刺激的なことだ。
しかし残念ながら人生の大半は、こうした毎日のうんざりする様な
小さなPDCAの繰り返しで構成されている。

どんな小さな目標であっても、目標が無いよりも良い。
目標を見つけることを目標することもあるだろう。
日々進歩すると言うことが目標なので、こうした小さなPDCAの繰り返しはその達成の手段である。
目標を決めたら、手段(方法)と納期(日付)を決めることだ。
過去にたくさん出会った方の中で、自分の夢を叶えてゆく人の共通点は、
目標に具体的なQCD(内容、コスト、納期)を決めている人であったような気がする。
この目標はどんな内容で、自分の時間や資財をどれだけ投下し、
いつまでに達成するするのかを決め、計画に基づいて行動を細分化することのできる人であり、「計画の無いところに目標達成はありえない」という教訓だと言える。

自分自身は小さな存在で、特に能力や才能に長けている訳ではない。
だから毎日、「少しだけ自分のどこを変えたいのか」を決めて過ごすことが、
己の存在の小ささと努力の可能性を感じさせてくれるのではないだろうか。
どこを変えるのかで新たな自己の発見がある場合があり、
その時は思わぬ拾い物をしたような満足感があって嬉しいものだ。
自分に満足しないのであれば、自己を変えて行かねばならない。
とまたまたインディアンの酋長の独り言ような話にお付き合い頂き、ありがとうございました。