「声は心が立てる音、言葉は心の形」
言葉の持つ力について考察する(1)
今週の週末(11月10日、11日)は二日とも京都の母校、同志社大学に行った。
10日は専攻の学科発足45周年を記念する卒業者の集いに参加し、
27年ぶりにゼミの恩師や専攻の同級生に再会した。
恩師はまだ研究の最前線に居られ、現在でも積極的に、海外への学術出張などにも出掛けられており、ご健勝ぶりに接して、本当に懐かしく、また嬉しく思った。27年経っても、恩師の薫陶は有難く、無条件に心の中に染み入ってきた。
また同級生も大半の方が、卒業以来の再会であったが、数分もしないうちに打ち解けて、
心がタイムスリップし、往時の自分たちに戻った様な気持ちになった。
青春の4年間を共に過ごした記憶は、何歳になっても失われることがない。
「人間」=「人」+「間」であるが、学生時代に築いた「人」の「間」はこれからも、
自分の人生にたくさんの彩を与えてくれるだろう。
11日は大学のホームカミングデーで、日本全国からOBが母校を訪問し、
久闊を温めあうイベントが開催され、冷たい雨の空模様にも関わらず、
多数の卒業生や在校生が集った。
毎年恒例の卒業生と在校生が共同で作り上げるイベントで、
筆者も卒業生として「二つのジリツ(自律と自立)で創造する働く価値」
と言うタイトルで講演させて頂いた。
大学の先輩であるセコムの木村会長の後の講演だったので、
少しドキドキしたが、とても楽しく話をさせて頂き、木村会長の講演ではたくさんの気付きを頂き、あっという間に時間が過ぎてしまったように感じた。
マズローの欲求5段階説ではないが、所属と愛の欲求(Social needs / Love and belonging)を母校愛として存分に再認識させて頂いた週末だった。
今年の秋は短かった様に感じた方も多いのではなかろうか。
11月に入ると、あっという間に冷え込みが厳しくなり、
立冬を過ぎた今日は、暦の上ではすでに冬である。
立冬とは「太陰太陽暦」で、季節を正しく表すために用いられた「二十四節気」のひとつである。
「二十四節気」とは1太陽年を太陽の黄経によって24等分し、
その分点に節気と中気を交互に配列し、それぞれに季節の名称を与えたもの。
正月節は立春、正月中は雨水などと表す。
立春・雨水・啓蟄・春分・清明・穀雨・立夏・小満・芒種・夏至・小暑・大暑・立秋・処暑・白露・秋分・寒露・霜降・立冬・小雪・大雪・冬至・小寒・大寒などのことを指す。
手紙の挨拶文に出てくるものなどは知っていたが、こうして改めて一つずつ見てみると、
それぞれに季節の風情があり、言葉の美しさや艶を感じずにはいられない。
日本の四季を表すには、やはり日本語が一番適しているように思う。
言葉とは、その使われている地域の環境や気候、価値観、歴史などを通じて、
常に変化を遂げてきたものであるが、最近の日本語は、せっかくの歴史の重みを軽視し、
軽佻浮薄な形に変わって行くことを歎ぜざるを得ない。
「信」とは「人」+「言(葉)」である。言葉を正しく使うことなく、信(まこと)を伝えることができるのだろうかと疑問を持ってしまう。
最良のコミュニケーションとは、最適な言葉の選択が重要である。
最近の社会人に求められる能力で最も多いのが「コミュニケーション能力」であり、
社員を採用する面接シートのチェックリストには、必ず「コミュニケーション能力の有無」があるし、コミュニケーション力を高める企業内教育は大盛況である。
コミュニケーションを調べてみるといくつかの重要なポイントがあるが、
あるサイトに以下のような定義がされていたので参照して頂きたい。
■理論性(Persuasion)
相手から自分の話したい内容や提案で納得を得る為に、
相手に合わせた一定のストーリーを立てておく、また計画し(こと前の戦略)、
やりとりの最中や終了後に相手からの評価を感じ取り、
自己評価により今後の改善につなげるスキルである。
■共感性(Empathy)
実際のやりとり(聞く、質問する、話す、またその雰囲気づくり)の開始から終了までに、
相手の状況を判断しながら、予め筋道を立てていたストーリーを調整しつつ、
相手と自分との心理的距離感を縮めるスキル。相手の不安を取り除いたり、
その場で話の内容を調整、強化したりする行動も含まれる。
■信頼性(Reliability)
話を聞いてみよう、もしくは話をしてみようと相手が思う為に、
共通してコミュニケーションシーンを左右するものを理解し、普段から心がけるべきもの。
相手に与える印象をコントロールする方法である。
・ エチケット・・・身だしなみ、マナー、配慮、常識等
・ 準備・・・物理的準備、内容に関する精通等
・ 言語・・・言葉遣い、ワーディング、敬語等
理論性、共感性、信頼性のどれもが重要なことであり、このバランスが良いコミュニケーションほど、確かなラポール(合意)を形成できるのだろう。
個人的にはこれらを全体的に補助する要素として「最良な言葉の選択」を加えてみたい。
コミュニケーションとは単なる言葉の交換ではなく、そこに必ず伝えたい内容があり、
最終的には相手の心を自分の目的の方向に動かすことが重要であるように思う。
相手の心を動かすためには、言葉の重みやタイミング、もちろんその中身も重要であるが、それらを的確に表現するための言葉の選択が、コミュニケーションの重みを形成する。
同じ内容のことを伝えるにも、貧相な言葉の羅列では、相手の心に言葉が届く角度が浅すぎて、共感や信頼を得ることができない。
言葉の選択とは、まさにそれを発する人の人格や教養と密接に関連していて、
言葉を発する人の「魂の位」が見え隠れするものではなかろうか。
最適な言葉の選択を行うには、豊富な語彙や言い回しが必要であり、
一般的に、これは一朝一夕で得ることはできないものである。
故に豊富な言葉の選択肢を持つためには、常日頃、たくさんの本を読み、
いつもの気軽な会話の中に、たくさんの工夫や気付きを発見する下地づくりが欠かせない。
たくさんの優れた文章や言葉に触れれば、自分の語彙が豊かになって行くのであるが、
インターネットやSNS、携帯メールなどの普及によって、
そのコミュニケーションの大部分は口語化してしまい、
日本語の形式美が失われつつあるように感じるのは筆者だけであろうか。
ものには「形式美」と言うものがあるが、コミュニケーションにも形式美が存在する。
フォーマルを備えた人が、インフォーマルを装おう事で、逆にフォーマルな部分を強調することはできるが、インフォーマルだけがベースになっている人には、この形式美(フォーマル)を表現することはできない。
しかしそうした形式美を構築する語彙の豊かさは、必ず己の成長や人生の岐路での正しい選択、問題解決のヒント、有益な人間関係の構築などを与えてくれるだろう。
人は誰でも、相手に理解されたいと願っている。課題を挟んで議論を行う時、
その課題が複雑であるほど、お互いの理解度を高めなければ、より適切な解決策を見つけることができない。中途半端な相互理解であれば、導き出される解決策も、また中途半端であると言うことだ。
日本語は世界で最も美しい言葉の一つである。
言葉の陰影によって、感情や風情なども表現できる素晴らしい言語だと思う。
日本では良く「行間を読め」と言われるが、海外ではそういう場面に遭遇することは少ない。
日本語は発せられた言葉を「陽」とすると、その言葉の裏側に「陰」の意味が存在する多元的な言葉であり、陰陽交えた言葉の交換は、会話の情緒性を高めてくれる。
声は心が立てる音であり、言葉は心の形であるのだろう。
心に素晴らしいものを貯めることができたら、最高の言葉で表現してみたいものだ。
素晴らしい言葉や文章に出会うことは、その人の人生に心の豊穣を授けてくれることは間違いない。
我々日本人ももう一度、日本の言葉の美しさやそれが持つ本当に力について
再考すべきではないだろうか。