言葉とは人間に与えられた至宝
言葉の持つ力について考察する(2)日本列島は冬の到来を示す寒波の訪れである。
12月の降雪の多さでは、1985年以来だそうだが、暖冬を予想していたので、
意外な気候の展開に、日本全国の冬への準備不足が否めない。
1985年は自分が就職した年なのだが、寒い冬だったので、初めてもらった12月のボーナスで分不相応のコートを購入した記憶がある。
「光陰矢の如し」で時間が経つのは本当に早い。
あれから29年、松尾芭蕉の「奥の細道」冒頭の『月日は百代の過客(はくたいのかかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり。』と言う一節を思い出す。
人生の価値とは「与えられた時間」×「時間の密度」だと思うのだが、「行きかふ年」に追われながら、時間の密度を高くするための努力を怠らなかったかと自問すれば、反省しきりの29年であった。
寒いと言えば、今回の総選挙もお寒い限りである。
小党乱立で、政策がはっきりと見えない。昨今の民主党の連続する失政がさらに政局を複雑化し、各政党の主張する政策(与党叩き)は多岐に渡るので、国民の選択が難しい。
また新しい風を吹かせたい気持ちもあるが、混迷を極める日本の舵取りを経験の乏しい政治家に託する不安もあるし、これまでの既存の政治的枠組みの限界も感じてしまう、国民感情に矛盾が存在する。この政治不信とも言える諦念が未来をさらに寒くする。
しかし選挙に行かなければ、何も変わらない。
自分の一票で日本が変わるとは思わないが、一票を投じなければ、変わる可能性すら放棄してしまうと言うことだ。自らの一票を投じることで、日本の未来作りに参加する意識を高めるべきである。
諦めることはいつでもできる。
しかし諦めない意志を持ち続けることは今しかできない。
『功は舎かざるにあり。昏々の事なき者は赫々の功なし。』
「本当の成功とは、はるかかなたにあると同時に、いまここにもある。持続するいまがなければ、成功という未来はない」ということではないだろうか。
今を真剣に生きない者に、確かな未来などありえない。
日本の国も同じだろう。真剣な一票を投じない国民に、豊かな未来などありえない。
話は変わるが、筆者はIT企業、それも生産管理システムの開発を生業にしているので、よく理系の出身ですかと聞かれることが多いが、実は文学部の出身であり、大学時代は産業関係学という社会学や東洋史学について学んで来たので、就職時には、コンピュータやものづくりなどは全くの門外漢であった。
昭和60年に新卒で三菱に入社するまでは、まったくキーボードやCRT(もう既に死語かもしれないが)などに触れたこともなく、システム設計やプログラミングなどは、自分の生活とは隔絶した、別世界のものと認識していた。
今でも捨ててはいないが、小説を書く夢を持っていて、いつか中国や朝鮮、東南アジアの歴史に関連する小説を書きたいと思っていた。
小学生の頃から漢字に興味があり、その成り立ち、特に「へん」と「つくり」の組み合わせが持つ文字本来の意味について、自分なりに思いを巡らせることが好きで、前回のお勧め本でもご紹介した白川静先生の著書に出会った時には、あまりの感動で、寝食を忘れて読み漁った記憶が懐かしい。
多分、漢字の魅力に気付く発端となったのは、小学校の時に習った「忙しい」と言う字であったように思う。「忄(りっしんべん)」に、「亡」ぶと書いて、「忙」であり、りっしんべんは心が変形してできた4画の偏であるが、「忙しい、忙しいといつも時間に追われている人は、心の豊かさが無くなって亡んでしまう」と言う警鐘を兼ねた組み合わせなのではないかと、小学生の筆者は推察し、世紀の大発見をしたような気分の高揚があった。
漢字は現代に残る数少ない象形文字の流れを汲む文字であるが、この偏とつくり組み合わせの妙に、漢字独自の美しさと奥行きがあると思うようになった。そう言う心待ちで、毎日、文章に接していると発見と驚きの連続である。
その驚きの繰り返しの中で、言語や文字が持つ魅力に捉われて、文学部を志すようになった。
そんなコンピュータ門外漢学生だった筆者が、この業界に就職した理由はいくつかあるのだが、プログラミング言語の「言語」と言うキーワードに惹かれたこともその一つである。
日本語も中国語も英語もスペイン語も、自分が生まれるはるか以前から存在する言語であるが、プログラミング言語は、コンピュータがこの世に登場してからできた言語であるから、若い言語であることに興味があった。
また人間が人間同士や家畜などの他の生き物に意思を伝える言語は多いが、人間がコンピュータと言う非生命体に意思を伝える、言い換えれば命の息吹を与えるプログラミング言語とは如何なるものかと言う興味にも誘われて、文系でもエンジニアになれる教育プランを懇切丁寧にご説明して下さった三菱に就職した。
期待と不安の混じる研修が始まり、初めて作ったプログラムの仕様は忘れてしまったが、自分の作ったプログラムがコンピュータを動かすのを見て、感動したことを覚えている。
COBOLと言う言語が、コンピュータと言う機械に命を吹き込んだ様な気がした。プログラミング言語には、我々が日常話すような複雑な表現がある訳ではないが、そこに体系だったシンプルな美しさがある。
同じ事をコンピュータに実行させる場合でも、プログラムを作成した人によって、ロジックや表現が異なり、最終的にはプログラムのステップ数も変わってくる。筆者が研修で、口すっぱく言われたことは「プログラムはシンプルなものほど良い」と言うことであり、可能な限り、少ないステップでコーディングすることを叩きこまれた。
シンプルなプログラムの方が、後々の修正や機能追加が容易であり、業務の変化に伴う変更に強い、変化に対応しやすいと言えるだろう。
またシンプルなものほど他人との共有が容易である。
進化論を書いたチャールズ・ダーウィンは「強い者が生き残ったわけではない。賢い者が生き残ったわけでもない。変化に対応した者が生き残ったのだ」と言ったとされる(これには異説もあるようだが)が、シンプルなプログラムほど、幾世代もの長きに渡って、お客様に利用されてきた例に幾多と遭遇してきた。
その「シンプルな表現の優位性」とは、プログラミング言語もであっても、我々が利用する日常の言語も同様ではないだろうか。
複雑な会話よりも、単純な会話の方が、より多くのものが伝わったと言う経験を持つ方も多いのではないかと思う。
例えば、営業の基本行動は「説く」ことである。
若く経験の乏しい営業は「説明」を繰り返す。顧客の事情や要望に応える前に、自分の製品を説明してしまう。製品や機能の説明は、営業上、重要なプロセスではあるが、その製品説明が、最終的に顧客の需要や課題の解決の可能性を明示できない場合は、顧客の同意を得ることができない。
そしてさらに多くの美辞麗句を持ち出して、説明を繰り返すが、最終的にものが売れる事は無く、双方にとって時間の徒労に終わってしまう。
それとは逆に年季を積んだ営業が顧客に「説教」をしてしまう場合もある、これはプロセスの省略であり、「こんなものなんです」と言う観念論の展開や、見積価格(場合によっては値引き)で優位性のアピールを繰り返し、同意を得ることができなかった顧客に「あのお客は分かってないな」と言う決め付けを行うことである。
営業の基本とは「説明」でも、「説教」でもなく、「説得」ではないだろうか。
顧客の視線で提案を構成し、顧客の立ち位置で費用対効果を考えた「説得」を行うのが優秀な営業マンだと思う。
優れた提案にはいくつかの満たされるべき要素があるが、その一つに「シンプルな言葉で伝える」と言うことがあるのではなかろうか。
我々IT業界で例えると、業界独自の用語や略語(特にアルファベット3文字)、言い回しや価格提示方法などがあるが、我々IT業界側から発した簡単と思えるような説明も、普段、IT業界に身を置いている訳ではない顧客から見ると「難度の高い」説明であることが多い。
その溝を埋めるための補足説明がさらに提案の難易度を高めてしまう「負のスパイラル」も良くあることだ。
プレゼンや説明はできるだけ簡単な方が良い。言葉や文字がシンプルであるほど、その伝えたい内容の純度が高まり、顧客に届きやすいものである。
シンプルな表現を行うためには、「最良の言葉の選択」が重要である。言葉や文字の総量が少ないのであるから、言葉は選ばなければならないし、最良の言葉の選択を行うためには、語彙の豊富さが必要である。
言葉の選択は提案の「品質の一環」であり、対面している営業の「人格の一端」である。人は相手の発する言葉から、その人の本質、例えば誠意や知性、場合によっては提案の妥当性を感じ取るものである。
人間とサルの違いは
「直立歩行すること」「火を使うこと」「道具を作ること」そして「言葉を持っていること」であると読んだことがある。
一歩進めれば、サルに近い人間は「言葉の使い方が稚拙」であり、サルから遠い人間は「言葉の使い方が秀逸」であるとは言えまいか。
言葉とはまさに人間に与えられた至宝であり、それを使いこなしてこそ、人格の向上が期待できる。同じ営業を行うのであれば、魂の位の高い営業をしたいものだ。
感謝も憤怒も悲嘆も愛情も、相手に伝えるために最高の言葉を選ぶことは、確かな演出である。
人間が生み出した言葉には、不思議な力があり、己の心の様をこれほど豊かで的確に表現できるものなど他に無い。
言葉の持つ力を最大限に活用することは、人生を豊かにしてくれるだろう。