まだ満たされていない自分に感謝


「己の経験を歴史に投影してみる」

誰もが本格的な春の訪れを感じることができるようになってきた昨今である。
しかし春の嵐と言うべき爆弾低気圧のせいで、花見ができる期間は、一瞬で終わってしまった。花の命は短いと言うが、本当に春の到来を感じる間もなく、春が現実になってしまったと言う感じではあるが、確かに春はやって来た。

春と言えば、アントニオ・ヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲集「四季」を思い出される方も多いのではないだろうか。
ヴァイオリン協奏曲 ホ長調 『春』 RV.269。
正式には、《和声と創意への試み》 (Concerti a 4 e 5 "Il cimento dell'armonia e dell'inventione") 作品8の内、第1集の第1曲につけられた名称だが、ヴィヴァルディ自身による命名ではないことは、あまり知られていない。

誰もが耳にしたことのある第1楽章アレグロには「春がやってきた、小鳥は喜び囀りながら祝っている。小川のせせらぎ、風が優しく撫でる。春を告げる雷が轟音を立て黒い雲が空を覆う、そして嵐は去り小鳥は素晴らしい声で歌う。鳥の声をソロヴァイオリンが高らかにそして華やかにうたいあげる。」と言うソネットが付されている。

麗らかな春を表す、素敵なソネットだ。このソネットの中にも春の嵐の件が出てくるので、当時のイタリアにも爆弾低気圧があったのだろうかとおかしな想像を巡らせてしまう。

日本の美しさの背景には「四季の移ろい」があり、日本人は四季の変化が好きである。
四季の移ろいの中に、日本人独特の風情と言うものがあるからあろうか。
それは音楽だけではなく、文章、絵画など日本芸術のあらゆる面で表現の対象となっている。
例えば鮫島輝明は「心の四季」と言うこんな言葉を残している。
人に接する時は、暖かい春の心。
仕事をする時は、燃える夏の心。
考える時は、澄んだ秋の心。
自分に向かう時は、厳しい冬の心。
日本人の季節に対する心の在り方を、端的に表現した秀作だ。

人は苦しんでいる時に「明けない夜は無い」「止まない雨は無い」、そして「春が来ない冬は無い」と言う言葉を用いて、己や仲間を励ますものだ。春夏秋冬と同じく、喜怒哀楽も常に循環していると言う概念であろうか。

変化とは感情や環境の振幅であり、喜怒哀楽の流れそのものだと言える。こうした人生の明暗の繰り返しとそのバランス(調和)こそ、日本人が大切にしてきたものだと思う。

蛇足になるが、ヴィヴァルディの「四季」も素晴らしい作品だが、個人的には同じヴィヴァルディでも、「調和の霊感」の一連の作品の方が好み。

日本の経済も復調の兆しが明確になってきた。長い冬が終わって、春の訪れを予感させる局面にあるように思うが、株価の急騰、急速な円安、過去最低の長期金利、電気代高騰、アベノミクスの過大評価、東アジアの政情不安など、まだまだ政治や経済、そして経営の舵取りが難しい局面であることは間違いない。

日本はバブルの崩壊、リーマンショック、東日本大震災と幾多の苦難を乗り越え、またまさに今、乗り越えようとしているが、今だからこそ、春夏秋冬や喜怒哀楽の循環などから、歴史(史実)から循環の本質を学ぶ必要があるように思う。

プロシア(ドイツ)の鉄血宰相と言われたビスマルクは「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言っているが、非常に含蓄のある言葉だと思う。確かに経験は人の成長を促すものであるが、同時に個別事情の上に立脚している経験は、物事の本質を暗喩的に表し、その学ぶべき価値の本質を明示することが多くないとも言える。

経験によって成長した人は、かえってその経験に縛られ、己の視野を狭めている場合が少なくなく、言い換えれば、経験は人を縛ってしまうことも多々あるのだろう。

「小成は大成の妨げ」と言う。小さな成功を手にしてしまえば、それを手放したくない守りの気持ちが出て、更なる挑戦を諦めてしまうと言うことだ。故に成功は必ずしも、その人に幸せをもたらすものとは限らず、場合によっては成功を手にした瞬間から、失敗の序曲と言う不幸が始まっていると言えるのではないか。

自分の経験を歴史に照らす作業は、勇気と根気の必要な作業である。しかし、本当の成功とは、それを通じて物事や己の本質を見極めることであり、手にした成功を捨てることから始めることも多いのではないかと思う。

極言すれば、己が終生、成功したと思えないことこそが、本当の成功なのかもしれない。
たくさんの社員の人生を預かる経営者であれば、尚更のことである。
満たされてしまう自分よりも、まだ満たされていない自分に感謝すべきだと思う。

自分で起業してから20年が経った。経営者は天才である必要がないと自分に言い聞かせて来た。確かにスティーブ・ジョブスのような天才もいるのだろう。しかし自分が天才ではなく、凡庸であることは、自分自身が一番良く分かっているのであるから、天才と同じような経営をしても、最終的には生き残ることはできないと思っている。

20年経っても、自分のたったひとつの失敗が会社を潰してしまう事になるのではないかと言う恐怖はいつもある。だから成功する企業は、経営者不在でも機能し続けるものだと信じたい。「自分の存在感が希薄化すること」を目標にするのであれば、経営者とは因果な仕事だと思うが、「言うは易し、行うは難し」であり、今の自分を客観視しても、全くそれが出来ているとは思えない。

経営者は自分の人生を表現する手段として、経営を選ぶものであり、簡単に言えば、自分の生き様を、経営と言う形で自己表現したいと思っているものだ。

創業期や揺籃期には、そうした一種の「独善的な個人の牽引力」が強力なリーダーシップとして、機能することはあるが、企業の成長とともに、組織自体が、社会の常識に迎合することなく、革新と言う「企業の独善性」が発揮されなければならないのではなかろうか。

ある時から経営者は、その企業の経営的DNAを残すことに注力し、オペレーションとしての経営者必然性を消し去ることが、100年企業構築の礎であると思う。己の経験の中でのみ生きていれば、気付かないことが多すぎる。

企業において一番恐れるべきことのひとつは「社長の無知」であると故・本田宗一郎は言った。企業を取り巻く環境は刻々と変化し、社長が経験からだけ学んだ知識は、早晩、陳腐化する。全てがそうだとは言わないが、複雑なものほど、この傾向が強いように思う。逆説的に言えば、シンプル(単純)なものほど、ライフサイクルは長く、純度が高いものほど、生き残る可能性が高いと言うことであろうか。

だからこそ歴史に学ぶことは自分の経験の純度を高める行為であり、自分の経験を歴史に比較することによって、経験から学ぶものの純度を高めることができると思いたい。
歴史は決して一人の人生ではなく、これまでの人類が生き抜く共通項として、守ってきたものの最大公約数だからである。

大きな視点での判断は、行動の勇気を与えてくれる。
決断する前に、その完全な見通しをもとめると、決断すら行えなくなることがあるが、行動を開始する場合には、「十分条件」を待って始めることと、「必要条件」が揃えば始めるべきことがあるように思う。

「十分条件で始める」とは、10の条件のうち、8~9つが揃うまで自重し、満を持して始めることである。満を持するとは、弓をいっぱいに引き絞ることであり、十分に準備を行った後の始動の重要性を表している。
「満を持する」の原典は司馬遷の史記「李将軍列伝」だが、日本で言えば徳川家康あたりの処世を表しているだろう。
待つことには「信念」と「忍耐」必要である。

「必要条件で始める」とは、10の条件のうち、3~4つが整えばスタートすることであり、タイミングを重視し、起動後に考えながら方向修正を行うことである。
「天の時・地の利・人の和」のなかでは「天の時」を重視した処世であり、踏み出す勇気が試される選択である。
勇気には「真の勇気」と「匹夫の勇」の二種類があり、本当の勇気には己の感情の高まりに飲み込まれない意思の強さが求められる。これは「人より半歩だけ前に出る勇気」と言っても良いだろう。感情の昂ぶりに抗し切れない者は、三歩も四歩も前に出てしまうのが常である。

人生には数多のチャンスがあるように思えるが、
本当のチャンスの数はそれほど多いわけではない。

また物事の成否はそのスタートに拠るものが大半であり、「十分条件」で始めるにしても、「必要条件」で始めるにしても、チャンスそのものの吟味を怠ってはならない。

そのチャンスを吟味するにも、己の経験だけではなく、歴史からの気付きに解決策を探るべきである。歴史に内在する純度の高いシンプルなものと己の選択肢を比定し、その重合が見えたら、行動あるのみだ。その行動が己の経験だけではなく、歴史に準拠していれば、恐れるものもないだろう。

筆者自身が歴史に学ぶような生き方が出来ている訳ではない。その事が分かっているからこそ、常に自分の小さな経験からの学びを、歴史に比較し、己の小ささを知るべきだと思う。
自分が大きいとか小さいと言うことは、悠久の時の流れの中では、大した意味を持たないのかも知れない。しかしその悠久の本質を常に意識した思いは、時の流れの中で朽ち果てるまでに、本質の一部として同化されるものもあるのではなかろうか。

春夏秋冬、喜怒哀楽、起承転結、輪廻転生。すべては循環する。

自分の生き様を歴史の循環に、投影してみると、己の意外な可能性を感じるものだと信じたい。