孤独とは最高の贅沢である


ゴールデンウィークの最終日に本稿を書いている。
今月も相変わらずの天候不順で、ゴールデンウィークも肌寒く、北海道では21年ぶりに期間中の降雪を記録したそうだ。アベノミクスを中心とする日本経済の不安定さと同じような天候だと思う。
しかしこれから気候は間違いなく暖かくなるし、経済も同様であって欲しい。

この休暇期間中はPCを開かずに仕事はオフと決めていた(実際はそうならなかったが)。
もう少しオフの充実を考えないと、このままではワーカホリック状態で徒に時間が過ぎてしまう不安がある。
元来、働くことが好きなので、長時間、仕事に向き合う毎日でも苦にならない。
平日はほぼ毎日、午前3時過ぎまで自宅で仕事をするが、朝は7時半に起きるので平均睡眠時間は4時間程度。知り合いはもっと睡眠をとるように言ってくれるが、この睡眠時間は学生の頃から同じで、逆に8時間も眠ると体が重いと感じてしまう。
睡眠の基本の一つは「量(時間)」なのだろうが、「質(深さ)」と「規則性」も重要な要素であり、規則性が「質」と「量」を統制するのだろう。

自分自身、毎月の半分くらいは出張で大阪を離れている。
出張に出ればできるだけ効率的に動きたい思いもあり、夜も仕事関係の会食を入れることが多く、ホテルに戻るのは12時を過ぎることが大概である。
逆に大阪の本社にいる時は、日中に5~6件のアポイントや打合せが入り、夜は会食や会合、プライベートの約束が入るので帰宅が12時を回ることが多い。それから入浴して、期限のある資料を作成し、社内のSFA(日報)にコメントを入れ、メールの返信をすれば、時間は午前3時を回ってしまう。

社員はメールを携帯電話に転送しているので、「深夜のメールは止めて下さい」と苦笑するが、社内メールの返信は、本当にその時間帯しか無いので勘弁して欲しい。
一応、社員には「深夜のメールは返信の要無し」と言ってはあるが、携帯が鳴れば、気になってしまうだろう。最近は下書きフォルダに入れておいて、朝起きた時に送る様にしたりもする。

このような毎日で、仕事はもちろん友人や家族との時間も十分に取っているつもりだが、最近、自分のためだけに掛ける時間の減少が気になっている。

「最高の贅沢」とはもちろん人によって異なるものだと思うが、筆者にとっての最高の贅沢は「一人だけの孤独な時間=考える時間」である。

仕事柄、人と接する時間が多いので、日中は単独移動などを除いて、一人きりになることは殆ど無い。言い換えれば、常に誰かと時間を共有していることが常だと言える。
思考には「拡がり」と「奥行き」があるものだと思うが、他人と接することで、思考に拡がりを持たせることができる。意見や情報の交換は、時には、一人で考えることの何倍もの視野の広がりを与えてくれる場合があり、新しい価値を打ち出すことができる。
そう言う面では、「拡がり」と言う充実を感じている。

一方、思考の「奥行き」とは、基本的に己の深さに拠るものではなかろうか。
この深さは「己の心の豊かさ」と言い換えることもでき、知識、経験、見識などから導かれる視点や選択肢の豊富さである。

奥行きのある人間二人が接点を持てば、面の広がりを持つ知見が生じ、三人寄れば、その知見を立体に変じることができる。
お互いの接点に「拡がり×奥行き」が起こり、相乗的に知見の価値が増大され、それは己の奥行き拡大と言うフィードバックを伴う。しかしこれは己に奥行きを持った人間同士が接点を持った場合であり、己に心の奥行きがなければ、せっかくの接点も、成長に繋がるフィードバックを伴わない。

すなわち成長とは「自他」もしくは「内外」の両面から同時に進行し、その二面性が相互補完の関係にあるという事だ。常に「自もしくは内」の充実が成長の加速には必須と言えるだろう。

己の奥行きを深めることは、どんな場面でも可能だが、独りきりの時間を持つことが最も有効な手段の1つであり、外で得たものを己の内的な知見に変えるためには熟慮する時間が必要ではないだろうか。

しかしこの現代ネットワーク社会においては、人間は本当の意味での一人きりを現出させることはなかなかの困難である。どこにいても携帯電話は鳴るし、どんな局面でもメールは着信する。
こちらの都合など関係無しだ。「返信しなくては」と言う軽い焦燥感に追われながらの独りきりは熟慮の純度を低下させる。物理的に独りになれても、精神的に独りきりになることは難しい。

そういった意味で、前述の「最高の贅沢とは独りきりの時間」と言う思いに至る。
筆者も人付き合いは好きなので、「いつも愉快でにぎやかな人」、「ストレスの発散はカラオケや飲み会で大暴れ」的な見方をされるが、それも事実の一面であることを認識しながら、真逆の自分がいることも分かっている。

本当に自分をリフレッシュするには、独りになって、自分のためにだけ自分の時間を使うことが一番有効だと思う時がある。
それを敢えて「孤独」と呼ぶのであれば、その孤独の中で、1つのことを「考え抜きたい」と言う欲求に駆られることがないだろうか?

現代社会の時間が流れる相対速度は速い。自分が子供の頃に感じていた時間の速度よりも明らかに速くなっている。自分が経た年齢と残り時間との比較の中で生じる焦燥感もあるのだと思うが、社会構造の変化が、常に即物的な回答を求めてしまうようになってしまったことも、時間を速く感じる理由の一つではなかろうか。

経営においても然りである。
常に短期間での結果が求められる。経営で結果を求められることは当然であるが、あまりにも短期間での結果を求められ続けると、「計画」よりも先に「実行」を、「思考」よりも先に「行動」を重視しなければならなくなるのは当然だろう。

社会の価値は刻々と変化し、製品やサービスが持つライフサイクルの短期化も著しい。
チャンスと思しき機会への飛び出し、タイミング重視での新事業スタートは、まさに局地戦の特長である。それは戦術であって、戦略とは言えない。
経営において局地戦の連続では、戦略的アイデアの劣化や枯渇、不十分な実施計画が問題になり、短期的な対応に追われるがあまり、即物的な回答の連続に走らざるを得ない。十分な時間を掛けた検討(熟慮)が行えないまま、本来のコンテンツやプランの優劣ではなく、飛び出しのタイミングだけが勝負の分岐点になってしまう。

日本では起業後の3年で50%を超える企業が倒産や休眠になってしまうが、原因の一つは、中長期に掛ける「経営資源の不足」があるのではないか。
経営資源は「人・モノ・金・技術・情報・時間」などを指し、これらは複雑に絡み合っているが、局地戦の連続では金と時間の不足が大きな課題になることは推測に難くない。

また時間の不足は、思考(思慮)の欠如に繋がる。人間は深く考えて生きるところに人生の価値がある。
「人間は考える葦である」と言ったブレーズ・パスカルはこう言っている。
『人間はひとくさの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。 だが、それは考える葦である。(中略)たとえ宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢を知っているからである。宇宙は何も知らない。
だから、我々の尊厳のすべては、考えることの中にある。』

自分自身を振り返っても、考える時間が不足している危機感がある。人間はアウトプットばかりしていると、いつか枯渇してしまうと思うが、最近の自分を鑑みると、その危機感が強い。

考えるには「孤独」な時間が必要だ。

エドワード・ギボン(「ローマ帝国衰亡史」著者)の言葉にこう言うものがある。
『会話は理解を豊かにする。しかし孤独は天才の学校である。』 世間との関わりにばかり終始していると、常識の枠組みに慣らされてしまって、天才たる所以であるところの「新しい」発想など出てこなくなると言う意味だと思う。経営者を含め、新しいことを始める人は、その方面において天才でなければならない。
ここで言う天才の定義も重要であろう。
『天才とは高度の創造活動を行い、または傑出した社会的業績を達成するなど常人よりもはるかに優れた能力、才能を示す人物。この能力については二つの見方がある。第一は、天才と常人の差は量的なものにすぎないとする立場。第二は、その差は質的であると考える立場である。』
天才とまでは言わないが、誰しもひとつのことを深く思慮することにより、量と質としての効力発揮状況を大幅に改善することができる。人間が生きる中で価値を創出し続けるためには、考える時間そしてその時間を得るための有意義な孤独が必要なのではなかろうか。

『この世で最も強い人間とは孤独であるところの人間である。』(イプセン)
本当に一番強い人間は、敢えて孤独でいることが出来る人であると言う意味だろう。
「孤独」と「孤立」は異なるものだ。孤独は自らの意思で作り上げるもの、孤立は周囲から強いられるものであり、この意味は取り違えないで頂きたい。

本当の孤独とは己の内にあり、自分の周囲にたくさん人やものがある状況の中で、敢えてそれらを遮断する、すなわち賑やかな中にこそ本当の孤独があるのではなかろうか。

「孤独=己を豊かにするための自分だけの時間」と考えれば、孤独は最高の贅沢である。
豪と柔、表と裏、内と外、体と心、公と私、働くことと休むことなど、人生は陰陽二元に満ちている。
中庸と言う言葉があるが、これは二元のどちらにも偏向することなく、バランスを保つことこそ重要であると言う示唆ではないだろうか。そしてこのバランスを保つためには、有意義な孤独の中で十分な思考を巡らせる事が大切だ。
人生の達人とは「孤独」を楽しむ名人なのかもしれない。
少なくとも自分自身はそうありたいと思う。

最後にラ・ブリュイエールの言葉を記して本稿の終わりとしたい。

『われわれの一切の悪は、独りでいることができないところから生じる。
そこから賭事・奢侈・放蕩・酒・女・無智・悪口・羨望・自己と神との忘却などが生じる。』