限界を感じた瞬間から、本当の勝負は始まる


日本中、入梅したのか?していないのか?良く分からない毎日である。
6月も初旬が終わったが、思いのほか降雨は少なく、夏の水不足を心配してしまう。
(台風は上陸しないが、たくさんの雨をもたらせてくれそうだ。)

子供だった頃、6月といえば「毎日のしとしと雨」だった。

当時のビニール傘に黄色い雨合羽(良く言えばレインコート)で
小学校に通った記憶が鮮明に残っている。
小学校3年生の時に「ジャンプ傘」が登場したが、まだ高価だったので、
子供用などは殆ど普及しておらず、クラスの数人しか持っていず、
みんなの憧れだった様に記憶している。

バネを利用して自動的に開く傘を「ジャンプ式」と言うが、
未だにジャンプの意味が良く分からない。
本来の「跳ねる、跳ぶ」をイメージした名称なのだろうが、
子供ながらに「妙な名前だな」と思っていた。

最近では「ワンタッチ傘」と呼ぶ人が多いが、
日本洋傘振興協議会のサイト(http://www.jupa.gr.jp/)で確認してみると
やはり「ジャンプ式」が正式名称らしい。
仕事柄、ものづくりへの興味が尽きないので、
このサイトを見ているうちに、洋傘の歴史や作りにハマってしまった。

傘は大きくは長傘と折傘に分類されるが、サイズや機能等、それぞれに特徴がある。

<形態> ・長傘 ・折傘 ・ショート傘 ・ミニ傘
<機能> ・手開き ・ジャンプ
<傘の形>

で分類するらしい。

また日本最古の洋傘の記録は、江戸後期の1804年(文化元年)、
長崎に入港した中国からの唐船の舶載品目の中に「黄どんす傘一本」との記述が見られる。
これが現在、洋傘として特定できる最古の記録とされるものなのだそうだ。

もちろん、安土桃山時代に堺の商人が豊臣秀吉に傘を献上した記録など、
これ以前にも洋傘が海外から日本に持ち込まれた形跡はあるが、
はっきり洋傘だと断定できるのは、この「黄どんす傘」が初めてのものらしい
(日本洋傘振興協議会サイトより参照、改稿)。

アンブレラ・マスターなる資格も存在し、スペシャリストの認定も行われている。
筆者は傘をさすのが面倒なので、好きではなく、
元来、雨の日は苦手なのだが、こうして傘のことを知ってみると、
雨の日も楽しく思えるようになれる気もする。

この傘の話に限らず、良く分からないので好きになれない事や
頑張り通す事が出来ないことがたくさんがある。
特に齢を重ねると、対象の中身を評価・判断する経験や方法は豊富になるが、
自分の人生の残り時間を意識して、十分な評価に手間や時間を掛けず、
感覚的な好き嫌いで決め付けてしまうことが増えるように思う。

逆に若年の方が、何でも感覚で決めてしまうような一般論はあるが、
少ない経験をフルに活用しての判断は、持ちうる目一杯の慎重さであるのではなかろうか。
最近は弊社の会社説明会などで、就活学生の前に立つことが多いが、
自分の就活を振り返ってみても、今の学生の方が慎重で計画的なように見える。

就活では情報が豊富であり、企業とのコンタクトもインターネットを通じて手軽になったので、
調べごとの時間が減ったのだろう。
30年前の就活は、自宅に届く電話帳のような本に綴じられた資料請求のはがきを送り、
訪問希望企業に電話を掛け、資料送付の御礼と同窓のリクルーターの先輩の紹介をお願いし、
先輩にアポイントをとってOB訪問を実施する。
今と比べればファーストコンタクトまでに何十倍も手が掛かり、
会社にリーチできるのは全く異なる複雑なプロセスだった。
就活の期間も短かったし、十分な企業研究ができたとは言えなかっただろう。
しかし限られた情報は「活きたもの」であり、
現在のような情報過多に振り回されることも無かったとも思う。
今は情報が多過ぎて、逆に本当の情報を選択できる能力も就活成功の要因と言えるだろう。

しかし会社にコンタクトした後の採用に向けた本当の勝負は今も昔も変わらない。
企業側にも情報は溢れているので、逆に企業側から見れば、
昔よりも手続きが煩雑になっている。
学生にとって、就活はまさに人生の棚卸であり、人生の分水嶺だと言える。
この就活に真剣に向き合った新入社員の定着率は高い。
それは就活を人生の勝負として、取り組んできたからだろう。

人生において、本当の勝負はいつも難しい。
本当の勝負は己が限界を感じた瞬間から始まるものである。
人生の大事を成すためには誰もが、その実現に不安を感じるものだが、
実際には事を成す勝者もいれば、事半ばで潰えてしまう敗者もいる。
この勝敗の分かれ目は、「己を限界の向こう側に持って行けるか否か」
に掛かっているように思う。

己の持つ限界に達した時に「これが限界」と思い撤退するのか、
限界までは誰もがアプローチできるものであり、
「ここからが勝負」と感じ、その限界の向こう側に己の可能性を拡げること、
すなわち「これまでの限界は仮の限界であり、
まだ己をその向こう側に持ってゆくことが出来る」と思える心のモメンタムが
勝負の分かれ目だということだ。

逆説的に言えば、進む方向に己の限界が見えている間は、
まだ本当の勝負が始まっていず、そこを越えたまだ見たことのない視界にこそ本当の勝負がある。すなわち本当の勝負をすれば、誰もが己の限界の向こう側に己を持って行くことが可能であり、
その心持ちがあれば、人は永遠に成長することができると言う事だろう。
生涯、成長し続けたいと思うのであれば、己の限界を拡張する勝負を繰り返すことだ。

言うのは簡単だが、その実行は困難を極める。
まず己を今の限界を知ること(認めること)が難しい。
客観的過ぎることも無く、主観的過ぎることも無く、
今の己の実力を定義することは勇気が必要である。
人は誰もが己の限界を認めたくはないものであり、今の己を有限とはしたくない。

しかし以前も書いたが、物事には二面性があり、
一つの事象にも裏と表、生と死、内と外などが存在する。
「死」があるからこそ「生」を感じるものであり、
永遠の命を持つものには「死」と言う概念は不要だろう。
「内側」に立つからこそ「外側」が見えるものだろう。
これを「己の限界」に換言すれば、
「己の有限」があるから「己の無限」を信じることができるのだろう。
本当の成長とは「己の有限を受け入れ、その向こう側へ己を拡張し続けることで、己の無限を立証することだ」とは言えまいか。

己を限界の淵に立たせることにより、
これまでの自分の殻を破ることができるのだと信じたい。
限界の淵から、己の可能性を見据えることにより、
未知の視界を認識可能な現実の視界へと変える事ができると思いたい。

繰り返しになるが「本当の勝負は己が限界と感じた瞬間から始まる」ものであり、
限界を知っているものだけが、本当の勝負に臨むことができる。
長い人生において、本当の勝負を繰り返すことができる自分を持つことは至福の喜びだと思う。

今日は雨だ。これから傘を持って仕事に出る。
傘嫌いの者は、傘のことを深く知ってみないと、生涯、雨の日を好きになることはないだろう。
しかし晴れの日だけでなく、雨の日も楽しむことができたら、人生の豊かさは増えてくる。