小さな感動を積み重ねる


8月に入ってからの気候は、猛暑というより酷暑に近い。
高知では41度を記録して、日本の最高気温の記録を更新したそうだ。
暑くても乾燥していれば過ごし易いが、湿度の高さには嫌になる。
これほど自分の体内に水分があったのかと驚かされるほど汗が出る。
言葉にすれば余計に暑さが増すので、「暑い」と言わないようにしても、
吐息の如く「暑い」と言う言葉を吐き出してしまう。
電話を掛けても、メールを打っても「暑いですね」と言う言葉を乱発だ。
今夏、日本全国で何回「暑い」と言う言葉が使われたのだろうかなどと
想像するのは、自分だけだろうか?
酷暑の中、先月の機械受注も6.8%伸びた。
このまま日本経済も良い意味で「熱く」なって欲しいものだ。

この原稿を夏季休暇の最終日に書いている。
他の原稿も合わせて、月に3本書いているので、計算上では10日に1本と言うことになる。
いつも締め切りギリギリになるので、今月は夏季休暇を利用し、3本とも早めに書き貯めしておこうと考えていたのだが、休暇初日にいきなりやって来た腰痛。

それは恐ろしいほど瞬間的にやってくる。
10秒前までは全く何も無かったのに、10秒後には立てなくなってしまう。
季節の変わり目である春と秋には風物詩の如くやってくるのだが、夏本番にやって来たのは久しぶりだが、結局、どこにも出掛けることもできず、この長い友達とも言うべき腰痛との闘いに終始して、夏季休暇は終わって行く。
「髪の毛は抜け始めて分かる長い友達」と言う育毛剤のCMがあったが、
「腰痛は痛み始めて分かる長い友達」と言う感じだろうか。

話は戻る。
お恥ずかしいことだが、月に3本原稿を書くと、書くネタに困ってしまう時がある。
書くということはアウトプットなので、それ以上のインプットが必要であり、
普段の生活でも、出来る限りインプットを増やしたいと思っている。
気付いたことや感じたことを簡単にノートに書きとめたり、本やインターネットで知った事をメモしたり、ブックマークを入れたりしているが、それを自分の考えに落とすことが、結構な大変な作業だ。
先に結論を決めてから書き出すこともあるし、書きながら結論を導いて行くこともあるが、どちらにしても自分の思考の浅薄さと筆力の無さに打ちのめされながら進めて行くのは、結構、厳しいことで、自信を喪失することも多い。

特に書きながら結論を導き出して行く時、その途中で全く予期していなかった方向に話が展開してしまう場合も多く、自分で書いた文章ながら、そのまとまりの無さに嫌悪を感じてしまう時もある。

いずれにしても、己の内側にしっかりとしたコンテンツが無いと、良質なアウトプットは期待できない。そのためには前述のように、平生より諸事に対して敏感な感覚を失わず、たくさんの小さな感動を発見することが良いように思う。

しかし日々多忙に紛れていると、諸事に敏感であり続けることは難しいし、
感動に浸っている余裕もないものだと感じてしまう。
まして日常に、心を震わせるような数多の感動が待ち構えているわけでもない。
だがあまりにも打算的な現実に染まってしまうと、小さな感動を見過ごしてしまう。

緊張の中で生じる感動は大きいが、小さな感動は心がリラックスしているところに現われることが多いものだ。
日々の生活の中でも、心の在り方を変えて、少し楽に生きれば、それまでに見えていなかった小さな感動をたくさん見つけることができる様に思う。

例えば
1年前と同じ質問を部下に投げてみる。
帰ってきた答えが昨年とは違う。
部下の成長が小さな感動に思えることがある。

例えば
何年か前に読んだ本を再読してみる。
以前は入って来なかった文章に新しい意味が見える。
自分の経験の積み重ねが新しい視点を生んだことに少し感動する。

例えば
お客様を何年振りかに訪問してみる。
社長も変わって、新しいものづくりが始まっていた。
納入したシステムが新しいものづくりに役立っていることを確認して、喜びと感動を覚える。

例えば
娘が新しい友達を連れてきた。
新しい学年に進級したことを実感する。
家族でまた1年の齢を重ねたことに感謝する。

例えば
昔の日記や手帳を開いてみる。
今も昔も悩みは多い。
しかし悩みの内容や質が変わっていることで自分の成長に少し感動する。

小さな感動とは、見逃しそうな変化を確かに感じるとることではなかろうか。
こうした小さな感動を体内に蓄積して行くと、己の思念の純度や知見の深みが増して行く。
人が生きると言うことは己の内側にあるものを、何らかの形で表現し続けると言うことだ。
音楽家は内なるものを音楽で表現し、画家は絵を描くことで表現する。
経営者は経営を通じて己を表し、人々は己の夢を追い続けることで人生の目的を定かにする。
人としての内側が豊かな者は、必ずアウトプットし続け、それは周囲に新しい感動を喚起する。
人間が社会的動物と表現される一端には、こうした感動の連鎖による集団の成長があるからではなかろうか。

感動に国境は無い。
音楽や踊り、笑いなどで繋がり合うためには言葉は不要。
楽器でもパーカッション(打楽器)などの構造は、世界中どこでもシンプルで、
叩くだけが基本で誰もが参加でき、シンプルゆえに誰もが簡単にその奏でられるリズムの中に、
短時間で溶け込むことができる。これはシンプルなものほどそれの持つエネルギーは伝わりやすいことの証左だろう。

「人生を生き抜くことは難しい」と自分で思い込んだ瞬間から、生きることは難しくなる。
「人生には小さな感動が散りばめられている」と思えば、それを発見する毎日は幸せに満ちたものになるのかも知れない。

一見、複雑に見えることも、要素に分析して行けば、
存外、単純なものの組み合わせで構成されているものだ。
「視力」ではなく「眼力」で物事を見ることができるようになれば、
複雑に見えるものの単純さに潜む小さな感動を見つけることができるのではないだろうか。

例えば
人は人を映す鏡だと言う。
自分を見ている相手の瞳に映る姿は己そのものだろう。
何年振りに再会した友達の視線に優しさを感じた。
自分が昔よりも少し優しくなれたのだろうかと思うと小さな感動がある。