秋の夜長をいかに過ごすか
すっかり秋の気配だ。
虫の声も昼間の騒がしさは失せ、雅味のある夜の声に変わった。
『秋の夜長』と言うが、皆さんがこの秋の夜長を如何に過ごされておられるのか非常に興味がある。
時間が足りない時の時間の使い方はもちろん重要なことだが、秋の夜長のように、時間に余裕がある時の過ごし方にこそ、人生の豊かさのヒントがあるように思う。
時間の余裕は己を成長させる大切な資源であると言えるだろう。
昨今では、生活が365日24時間化して、昼夜の別無く、無機質に時間が流れて行く。
買い物は24時間、コンビニやネットで。
飲食店も24時間、自宅にいてもTVは深夜まで、
ゲームやPCがあれば、ネットで人と繋がって、夜を過ごすのにも困らない。
しかし時間にはその時間に特有色や艶があり、
その色や艶に合った過ごし方ができるのは、人間の特権である。
秋の夜長は「風流な時間」であり、「もの思いに耽る」時間でもあり、
読書に耽ったり、
音楽に耳を傾けながら、過去や未来に心をタイムスリップさせることが楽しいと思う。
先週末の秋の夜長は中国古典の叡智に耽溺の時間。
以前読んだ古典に貼ってあった付箋を1つずつ剥がし、
もう一度、その箇所を読み込んでみる。
以前、気になった言葉は、秋の夜長の中で、自分にとって、珠玉の金言に変わって行く。
『嫌を避くる者は、皆内足らざるなり』
この一言は『近思録』からの一節である。
『近思録』(きんしろく)は、朱熹と呂祖謙が周濂渓、
張横渠、程明道、程伊川の著作から編纂した、
1176年に刊行された朱子学の入門書であり、
日本でも江戸時代の儒学を学ぶ者の教本となった書である。
「嫌」とは、人に嫌われること、好感を持たれないこと、
周囲と打ち解けることができず自分にとって都合の悪い状態を言い、
「内」とは自分の内面を、「足らざるなり」とは、己の修練が足りないことを指す。
意訳すれば「人から嫌われることを避けようとする者は、己の内面の成長(強さ)が足りない」と言うことだろう。
この言葉は組織のリーダーにとって含蓄のある言葉ではないだろうか。
組織の中でリーダーとしての役割を果たすことはとても難しい。
人間は誰でも、嫌なことは避けて通りたいし、周囲から認められたい、
敵を作りたくないと考えるものだ。
しかしリーダーは全体最適を前提として、時には毅然たる判断を下さなければならない。
部下に優しいだけでもリーダーは務まらず、恐れられるだけでも組織を牽引できない。
リーダーは組織に対して、常に判断基準を明示し、その基準に則った「公平かつ公正」な決断が求められるが、それを常に実践できる立派なリーダーが彼処に存在するわけではないだろう。
かく言う自分自身も経営者の端くれだが、己のリーダーとしての資質に関しては、
全くもって自信が無い。自信の1000倍の不安を持って、
日々経営をしているのが実情だ。そんな中で「嫌を避くる者は、
皆内足らざるなり」と言うのは、自分にとって金言である。
どれほど能力の高いリーダーであっても、全ての局面において、
対立する意見の双方が100%の納得を得る様な決断を行うことはできないだろう。
しかし最後に意思決定を委ねられるのは経営者(リーダー)であることは間違いない。
リーダーのみが最終の意思決定の権限を持っている。
その時、嫌われたくないと言う理由で、
双方に中途半端な決定をすることは最悪だと誰しもが分かっている。
だが当たり前のように分かっていることを実行することは思いの外、難易度が高い。
対立するどちらかの意見を採用すれば、不採用の側に不満が残る。
最終的に良い結果が出れば、そうした不満も解消されるのだが、
結果が出るのに時間が掛かったり、決断が誤っていた場合、
不満は嫌悪に変わる時があり、リーダーはそれを恐れてしまう。
しかし本当のリーダーとは、寛容と威厳を備えた者を言う。
組織の最大幸福を常に念頭においている自分があれば、
寛容と威厳は自ずから備わってくるものだ。
寛容と威厳は「認める」「認めない」もしくは「許す」「許さない」と言うことではないだろうか。
以前の志士奮迅にも書いたが、成功と失敗の分かれ目は「決断力」にある。
決断とは「決めること」と「断つこと」であり、Aと決めたら、
躊躇無くBを断つことだが、人間は元来弱いものであるから、Aと決めても、Bを捨てきれない。
この迷いが、失敗の原因になってしまうことが多いように思う。
「認める(許す)」とは決めることであり、部下に行動を促すことである。
これは人間関係が正の方向に動くので、比較的容易いことだ。
「認めない(許さない)」とは断つことであり、部下に翻意や再考、
場合によっては譲歩や断念を促すことである。
これは人間関係が負の方向に動くので、認めないことには勇気が必要になってくる。
ここで思い出したいのが冒頭の一節「嫌を避くる者は、皆内足らざるなり」である。
成長とは変化であり、変化とは行動、行動とは勇気であり、
勇気とは自己練磨ではないだろうか。
嫌を避け続け、己の内なる鍛錬を怠ったリーダーは、最終的に自己矛盾に沈んで行く。
そうなりたくなければ己の内に強さを持ち続けたいと思う強い意志が必要だ。
嫌われることを厭わない修練だけが、矛盾の淵から己を救い出す。
戦国時代の旧主尼子氏再興に命をささげた武将・山中鹿之助は
『願わくば我に七難八苦を与えたまえ』と月に願ったそうだ。
高く飛ぶためには一度、膝を折らないと飛べない。
しっかりと膝を折るための試練に七難八苦を求めた山中鹿之助の言葉が心に沁みる。
大きな夢を叶えるためには、大きな試練を受け入れる覚悟がなければならないということで、
旧主再興は、山中鹿之助にとって、それほど大きな悲願だったのだろう。
「天下の憂いに先立ちて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」
この言葉にリーダーの理想像を感じる方が、たくさん居られるのではなかろうか。