時間との向き合い方で人生の温度を変える


まずは冒頭で、この度の台風30号、31号で被災されたフィリピンやベトナムの皆さんに、心よりお見舞いを申し上げます。
天災とは避け難いものであることは十分に分かっているが、こうしてまた何千人の方がお亡くなりになられたのを知ると、人間の無力さを再認識し、自然前では敬虔さを失ってはならないのだと強く思う。
被災された皆さんの一刻でも早い復興をお祈り申し上げます。

さて気がつけば11月も中旬、師走や忘年会の声も聞こえる季節となった。
歳をとれば時間の経過速度を早く感じると言うが、まさにあっと言う間の1年だったように思う。
辛いことや厳しいことは時間の経過速度が遅く、楽しいことや嬉しいことは時間の経過が速く感じられるものだが、半世紀も生きていると、どちらの時間の経過も速く感じてしまう。

喜怒哀楽の振幅幅が減少した訳でもないし、仕事量が減った訳でもない。
逆に出会った人の数は昨年よりも随分と多かったように思う。
もっと時間や人生をたっぷり感じることができるはずなのに、1年はあっと言う間に過ぎて行く。

時間に対する執着がなくなったのか?
時間に対する余裕を失っているのか?
これまでずっと言われてきた自分の「生き急ぎ」が加速しているのか?
自分でも時間の向き合い方に戸惑い続けるここ数年だ。

以前にも書いたが「人間は自分が持っている多いほうの時間にとらわれる傾向」があるように思う。

人間の人生の長さを平均80年とする。
20歳の時は「20年の過去と60年の未来」を持っていることになる。
先ほど書いた「人間は自分が持っている多いほうの時間にとらわれる傾向」で言えば、
未来の方が断然、時間の持ち量が多いので、自分の人生を未来中心に語りたくなる。
人生における価値観は「未来の可能性や計画」が中心になると言うことだ。

逆に60歳になると「60年の過去と20年の未来」を持っている訳なので、
過去の自分を中心に人生の価値観を形成し、判断基準を定めてしまうのではないだろうか?
これは「経験を知恵に変える」と言う生き方で、クレバーではあるが、エネルギッシュではないように感じてしまう。人間の頑固さとは過去や経験への固執の一端であるようにも思う。

そんな中で一番難しいのが40歳前後ではなかろうか。

人生における過去と未来が合い半ばするこの時期は、
人生の価値観に客観と主観が入り混じる混濁と成長の時期とも言え、
ある意味、人生の大きなターニングポイントが巡り来る時期だろう。

一見、経験とは、積み重ねるほうが、その価値を増すように思えるが、逆に捨てることが、その価値の大小を決める場合もあるように思う。

自分の器量に余裕があれば「取捨選択」の順番でよいのだろうが、器量の限界にさし掛かった場面では「捨取選択」が重要で、先に捨てないと、新たに取ることができないことが多い。一度、捨てたものは、基本的に戻らないので、決断においては、何を捨てるかと言うことがポイントになってくる。捨てることにも、取ることにも、一番迷いが多いのは40代だったように思う。

唐突だが、人によって定義は異なるが、人生には成功と失敗がある。
自分が成功と感じるものが、必ずしも他人の成功と等しいとは限らない。そしてまた逆も真なりである。
しかし成功や失敗の定義が人それぞれだとしても、人生の充足感の相違には個人差があるのが現実だろう。そしてその成否の分かれ目が、決してその人に与えられた天賦の才の有無のみにあるとは思わない。天才だけが人生の充足感を味わっているわけではないと言うことである。

IQから見た天才の出現率は0.2%だそうだ。
実際のところ、社会において、人生の成功を手にする人(手にしていると感じる人)は0.2%ではなく、もっと多いはずである。もちろん成功の定義をIQからだけ評価するのは過ちだが、成功は天から与えられた才能のみで達成されるものではないと言うことを伝えたい。

スティーブ・ジョブスや孫正義の様な天才経営者が存在することも事実である。経営を感性と言うロジックでコントロールしているように見え、まさに天賦の才による経営実現だろう。そして不断の努力を惜しんでいないことも間違いない。

しかし前述のように天から与えられたもので成功を手にする経営者はほんの一握りであり、成功の可否の大半は、万人に対し、平等で共通に与えられたものに対する向き合い方に拠るものではなかろうか。

万人へ平等で共通に与えられるものはいくつかあるが、まずは「時間」だと思う。

寿命の長短はあるにしても、誰もが1時間は60分、1日は24時間、1年は365日である。天才ではない凡百の我々は、この共通に等しく与えられたものへの向き合い方や使い方で、人生の充足度が変わってくるのではないだろうか。

1秒間の向き合い方に差がなくても、1年は60秒×60分×24時間×365日=31,536,000秒、10年はその10倍で3億1536万秒であり、10年では大きな差がついてしまうのは必定だ。
時間への向き合い方で変わるのは「時間の密度」であり、時間の密度を高めるのは「目的と計画」ではなかろうか。
目的なく無為に過ごす時間の密度は薄く、目的とそれを達成する計画を持つ有意な時間の密度は高いと言うことだ。

これは簡単なようで難しい。己を投下できる目標を見つけることができる人は、天才の出現率よりは高いと思うが、それほど多いとは思わない。
目標とはその実現を己が信じぬけるものであり、その実現のための具体的な計画を持つことだと思う。

ここで話は最初に戻るが、最近、自分の時間の向き合い方への惑いは、自分自身が目標を喪失しつつあるのではないかと言う疑問を生んでしまう。
仕事も家庭も趣味もプライベートも、自分では目一杯頑張っているつもりだが、昔の自分と熱さが違うような気がしてならないのも本当だ。

人生80年として、残りの時間を考えれば、もっと熱く生きたいと思うのに、どこか冷めた自分を感じてしまう。あれほど時間への執着が高かったはずの自分の現在の変化がもどかしい。

しかしそれを単なる老いとしては考えようとは思わない。
これまでの人生に充足感があるわけでもなく、まだまだやりたい事や計画は山ほどある。
時が経つのが早く感じるのは、無為な時間を過ごしているからだ。
人生には何度かのターニングポイントがあるが、まさに今の自分がそこに立っているのを感じている。本当の人生の豊かさを探す旅は、53歳にして、まだその途に着いたばかりと言えるだろう。

今年も残すところ1ヶ月。

時間の密度は、人生の温度を変えてくれる。

「もう1ヶ月しかない」ではなく、「まだ1ヶ月もある」と思いながら、師走を駆け抜けたい。