戦う心を失わない


日本中に春一番が吹いて、本格的な春到来の予感である。
秋の夜長と言うが、個人的には春の方が考え事や趣味へ投じる時間は有効的な気がする。
しかし残念ながら、今年の春は景気の浮揚感もあって、仕事に追いまくれる春になりそうだ。
3月も14回飛行機に乗って、7回新幹線に乗り、まさにチンギスハン並みの「ビジネス遊牧民族状態」で、自宅のある大阪にも週2日程度しか帰ることができなかった。
しかし生来の貧乏性なのか、忙しい方が楽しい。

ここ数年、仕事もエンパワーメントして、部下にある程度の判断と決済を任せてはいるが、ここ一番「社長に同行をお願いしたい」と言われると、自分の価値が倍増したように感じられ、少々、無理な移動でも、嬉々としながら、フライトや新幹線を予約してしまう。
しかし移動中に体力的な限界を感じて、後悔してしまうのは、自分が老化している証左だろうか。
忙しいと言う字は「心」が「亡ぶ」と書く。
忙しすぎると、心が亡ぶと言う警鐘を込めて作られた文字なのかもしれない。

弊社も4月1日に新しい仲間を6名迎え入れた。
自分の事業を伸長させて行くいくつかのキーワードがあり、それは「プラットフォームビジネス」とか「教育ビジネス」「現行事業の深耕化」などであるが、近年、特に力を入れて取り入れているが「グローバル化」への対応である。

まずは社内人員構成のグローバル化と言う前提で、昨年はアルゼンチン出身の社員を雇用し、今年の新入社員には中国やヴェトナム出身の外国人社員を採用した。

もちろん海外でのビジネス展開を前提としていることは確かだが、住み慣れた母国を離れ、この極東の島国「日本」で勝負しようと彼らの人生へのチャレンジ魂は、テクニカルな面だけではなく、我々が忘れかけていた「戦う心」を呼び起こしてくれるものと大いに期待している。

本当のグローバル化とは、まず己のナショナル・アイデンティティを明確にすることだ。
いくら英会話スクールに通ったところで、グローバル化には対応できない。高度成長期の日本人は、世界中から「エコノミック・アニマル」と揶揄されながらも、戦後の復興と言う統一した国民の願望が、純粋なアイデンティティやコモンセンスを作り出していたのだと思う。

戦後の日本人は間違いなく、全員が戦っていた。
先達たちが、戦いながら守り抜いた現在の日本の国威だ。

しかし現在の日本や今の自分が戦っているのだろうか、本当に護るべきものは何なのかと常に疑問に思う。
歳を取るとは戦う心が失われてゆくこととの葛藤なのかも知れない。

戦うとは勝負を決することであり、勝ちを確認するか、負けを受け入れるかと言う事だ。
そして勝つ事に必ず価値があるとは限らず、負けると失うことばかりであるとは限らない。
正しく敗北を受け入れることができれば、それが新しい勝利に繋がる事が多いのだろう。

戦わないものには勝ち負けはない。
しかし、永遠の引き分けなどありえない。
永遠の引き分けとは取り返しのつかない大きな敗北だ。
グローバル化の中で、我々は世界と共存し繁栄するための戦いの中で勝ち負けを明確にしなければならないのだと思う。

さて4月に入ってからも多忙である。
アベノミクス効果も経済に定着化しつつあるのだろう。
4月の増税による反動の景気後退を危惧する声もあるが、マクロな観点で見れば、日本の景況は好転すると信じたい。

平日は忙しいと自認していて、週末や休暇にはやりたい事、やるべき事がたくさんあるが、実際、自由にできる時間を手にすると、もったいないほど無益な時間を過ごしてしまうのが人間の弱さだろうか。
毎週、休日の前には様々な行動計画を立てるのだが、いざ実行となると決断や動きの鈍くなる自分がいる。

一見、無益に思えても、無駄でないことはたくさんあるので、無駄な時間は必ずしも無益な時間だとは思わないが、自分の残りの人生を考えると、無駄な時間を過ごしていると、自分自身に対して、嫌悪を感じる時がある。

特に想定外のことが一つ発生すると、計画を破棄してしまいたくなる時があり、自分自身、決して短気な方ではないが、イラっと来ると、全部を投げ出したくなることがある。
計画は予定通りに進まない事を前提に立案すべきとは、いつも自分が言っていることなのに。

一般的には、想定外の事象の発生は、計画遂行の阻害要因となる。
ゆえに人は計画をより綿密に立案しようとするが、そこに計画が持つ別の落とし穴がある。
それは「計画は綿密になればなるほど、変更や取り消しに弱い」と言う特徴である。
綿密な計画とは耳に響きが良いが、あまりに綿密な計画を立てすぎると、不測の事態が発生した時に、それをリカバリーするだけの余力(バッファと言えば良いか)がない。

裏を返せば、計画には、その実現を担保するために、適切な計画のメッシュ(綿密さ)が必要だと言うことであり、リソースの分配に「遊び」が無い計画は、少しの予想外な要因にも対応できないと言うことだ。

もちろんリカバリーの効く計画のメッシュと言うものは、その実施内容によって異なるものであろうが、全リソースに対して、凡そ10%程度の「遊び(調整余力)」のない計画は、計画倒れに終わってしまうことが多い様に思う。

自分が主たる事業としている生産管理システムでも、スケジューラー(コンピュータを利用した工程計画の自動立案)がお客様のところで話題になる事があるが、高価なスケジューラーをご導入頂いても本稼動に至らず、そのままお蔵入りして、投資が無駄に終わってしまうことが多い。

これは導入するお客様の体制や体制、能力、標準化の推進度合い、割り切りの可否などの様々な原因があるのだが、スケジューラーと言うシステムに分単位の綿密過ぎる計画作成を求める事も不稼動の要因のひとつだと思う。

現場の機械が故障する場合もあるし、予定通りのピッチを出せない事もある。
また現場の要員が休む事もあれば、クレームの電話対応で現場に入れない事もあるだろう。
不測の事態に対応できないのは、厳しく言えば、計画自体が未熟であり、欠陥を抱えていたと言う事になる。

話がディテールに入ってしまったが、要は「細かい計画だから上手く行くわけではなく、TPOを考慮しながら、適切な粗さを持つ計画にこそ有効性がある」と言うことだ。

多忙な毎日には、時間の密度を充実させるために、適切な行動計画が必要だが、適切な遊びを忘れない方が良い。
遊びは余裕であり、メリハリと言う時間切り替えの起点となる。
このメリハリが毎日の己との戦いに、新しいアイデアと活力を与え、勝ちにさらに大きな価値を与え、負けを次の戦いに繰り出すエネルギーになるのではないだろうか。

これから益々進んで行くであろうグローバル化の中で、我々は海外のパートナーとビジネスの計画を共有しなければならない場面が増えるに違いない。
綿密な計画を好む日本人と計画に縛られたくない外国人。
始める前に全てを決めたい日本人と走りながら決めて行きたい外国人。

この両者の合意形成はなかなか難しいが、我々、日本人も「譲歩しながら主張する」もしくはその逆の感性を持たなければならない時代を迎えているのではなかろうか。