変わらない役割


お盆休みもあっという間に終わってしまうと思いながら、休みの最終日に原稿を書いている。休みの前には「あれとこれを終わらせて」とか「この本と映画を観る」とかたくさん予定を立ててはいるが、その殆どが実行されずに終わってしまう。

自分は生来のO型なのか?
時間に追われる方(追われないと)が、集中力が高まっていて能率が良く、逆に時間があると思うと、後から考えても後悔するような時間を過ごしてしまう。

残りの自分の人生を考えて、「そんな事で良いのだろうか」と言う自問自答は毎回の事で、その問いにすら飽きてしまった感じだ。
だから時間に追われている自分に充実感を感じてしまう。

8月10日の日曜日に小学校の同窓会を開催した。
小学校を卒業して以来なので、42年ぶりになる。
恩師も含めて7人の小さな同窓会だったが、参加できなかった同窓も含めれば、そこそこの同級生の近況が分かった。

今回の同窓会も起点はFacebookだった。
自分のFacebookでは基本データを公開にしているので、同級生が私を見つけてくれて、その後のお互いの情報の中から、さらに新しい同級生が見つかり、最終的に恩師まで辿り着き、昨年、41年ぶりに恩師や仲間と再会することができた。

現在のネットワーク社会の中において、SNSはコミュニケーションツールとして重要な役割を担うが、その反面、悪用による犯罪リスクなどが大きな社会問題になっている。

子供の虐めは、LINEのグループから外されることから始まるし、情報や意見を簡単に発信できるTwitterは、便利な反面、発言が反感を買えば、必要以上の悪意をもって叩かれて炎上もする。

「火」「火薬」「原子力」「遺伝子操作」など人間の生活を劇的に変えるものは、常に危険と便利さが表裏一体であり、こうしたネットワークによるコミュニケーションもそうした二面性を有する技術として考えるべきだろう。

今回は幹事をやらせて頂いたが、困難だったのは名簿作りにおける旧友の所在の洗い出しである。

小学校卒業後も40年間同じ所に住んでいる同級生は42名中3名だけであり、卒業した高校まで分かったのは全体の2/3弱だったが、個人情報利用の規制が厳しい中、同級生の連絡先を探すのは困難を極め、最終的にはFacebookが一番有効な道具となった。

そういう面では今回の同窓会はFacebook無しでは実現しなかっただろう。
道具は使い様だが、SNSも正しく利用すれば、人の繋がりを時間を超えて拡げることができる。

夕方に小学校正門前で集合し、母校で記念撮影を計画していたのだが、あいにく週末は台風の接近で当日の午後3時頃まで雨と強風。
結局、メールとFacebookで連絡を回し、直接、会場のレストラン集合になった。
会食の始まる17:30には雨も風も止んでいたのだが、交通機関が大混乱で、最終的に全員が集まったのは、予定より1時間遅れの18:30だった。

会食では昔話に花が咲き、家族や仕事の話で大いに盛り上がった。
会話の進行も昔が蘇る展開で、ツッコミ担当、ボケ担当、ガヤ担当にうなずき担当が往年のままで、懐かしいメンバーが集まっても、DNAに記憶された変わらぬ役割が嬉しかった。

昔の仲間が集まり、時間が遡っても、その瞬間を一番楽しくさせる役割は変わらない。
お互いに変わる事のない共通の思い出を持っているので、42年前にツッコまれた事を思い出しながらボケてみせる。期待通りのツッコミが帰ってきて、それがまた心地よい。
長い時間会っていない間のお互いの変化や成長を確かめながらも、お互いの記憶で昔を再構成する。当時の裏話や本音も出て来て、これがまた面白い。

年齢に応じて、自分の役割は変わって行くのだろうが、逆に言えば人は年齢や立場に応じて、自分の立ち位置や役割を決めて行くと言うことなのだろう。だから昔のシチュエーションが再現されれば、ナチュラルに自分の役割を演じることができる。

集団において相互関係が最適化される経緯で、果たすべき役割がその人のDNAに刻まれて行くように思う。

懐かしいと思う事は、相手との再会自体が懐かしい事もあるが、その相手との関係や雰囲気、空間などをまた共有できることを懐かしいように思うではないだろうか。

企業においても同じである。
企業の成長や事業の拡大の中で、個人が果たすべき「仕事上の役割」は変わって行く。担当からリーダーに、そしてマネージャーに変わって行くたびに、自分が果たす「仕事上の役割(職責)」は変わる。

同じ仕事に向き合っても、其々の立場で「視点」「行動」「責任」「評価」などは異なってくるものだ。

しかし「集団の中の役割」と言うのは、その属性が仕事にあるのではなく、組織の人間関係と言う、より抽象的なものを基本とするので、時間の経過とともに、形が大きく変わることがない。

「ムードメーカー」「聞き役」「指南役」「裏方」「モチベーション・リーダー」「調整役」など、これらはその人が持つキャラクターの上に立脚しているので、時を経ても、基本的には、自分の果たすべき役割は変わらないように思う。

仕事の業績と言う面では、評価が高くない人でも、組織運営の中でも欠くことのできない人がいるだろう。人間関係を円滑にしたり、近視眼的な議論に巨視的な流れを自然に流入させる人、他人の成果を心から喜び、自分の周囲の成長を楽しみにする人などだ。
この役割を持ち、それを果たす人は、組織の中で確固たる立ち位置を確保していると言える。

業績で貢献する人を「直接的な貢献者」と言うならば、人間性で貢献する人を「間接的な貢献者」と言うべきであり、成長する組織には、必ずと言って良いほど、この両者が適切な割合で存在するのではないだろうか?

間接的な貢献を行う人には、重要な局面で必ず果たすべき、変わらぬ役割があると言える。

齢を重ねると言うことは、物事の発想、着眼点、解決策などを、自ら複雑化させてしまう場合がある。しかし問題の解は、一番シンプルなところにあることが多いものだ。

旧友との繋がりは利害関係がなくシンプルであり、その変わることのない役割が、心地よい人間関係のあり方を教えてくれたように思う。

また来年の同窓会でもしっかり「ボケ」を演じてみたい。
それは自分の変わらぬ役割だからだ。