リアリティのある学びとは

 最近、弊社には大学生の出入りが多い。
それも就活生以外の1回生、2回生の来社も多い。若い人が多いオフィスには活気が出るし、先輩社員たちの刺激にもなる。自分自身が時折、気付きをもらうことがある。

 この学生たちは、私が登壇させていただいた大学の講義を受講してくれた学生やその友人、関係者が多い。授業で知り合い、Facebookで繋がり、会いましょうというパターンだ。授業ではベンチャー経営やアントレプレナーシップについて講義をすることが多いが、その時に必ず伝えることがいくつかあり、「リアリティのある学び」の実践、もそのひとつだ。

 人間が終生、学び続けることの重要性は、誰もが認識していることで、殊更に言うまでもないことであろう。学ぶというと学術的探究を思い浮かべることも多いかもしれないが、学びはもっと人の生活の近くにあり、リアリティに富んだものだ。

 「学ぶ」ということは反省を繰り返すことで、実践の中に何らかの知見を見いだすことと言い換えることもできるだろう。すなわち反省する気持ちがあれば、日々の生活の中に学びの種はたくさん存在していると考えてよい。結局、その種を見つけること、その意味を読み取る能力こそが人間力であり、これは与えられた天賦の才というべきものではなく、日々の自己鍛錬の中から生まれてくるものだと思う。

 自分の人生を加速するためには、この実践と反省のサイクルをたくさん回すことであるが、正しく実践するためには最低限の知識が必要になってくる。ここでは少し学術的なアプローチも必要になり、人はそれらの体系づけられたものを資格やライセンスと呼び、または学校や学府における学習という形で習得していくのである。

 ここで話は戻って「リアリティのある学び」の重要性についてだが、学びの原点は興味であり、実践の楽しみであろう。資格取得や試験の合格、学校の卒業などは学びの手段であり、マイルストーンではあるが、それが絶対的な目的やゴールになってはならない。そのためにも今の学びにリアリティを与える環境づくりをしてもらいたいと学生たちには話している。学んだことの実践場面が想像できないような学びのスタイルでは、試験や卒業が目的(ゴール)になってしまいがちだ。学んだことを実践するシーンを想像できないのだから、試験がゴールになることも致し方ないといえるだろう。

 恥ずかしながら、私も文学部出身で自分のことを文系型人間だと絶対的な定義をして生きてきた。文系の私には数学や物理は苦手科目なので、消去法的に文系を選んだにもかかわらず、そのことに全く疑いもなかったし、それでよいと思ってきた。

 中学の頃に生まれた数学への苦手意識は、高校に入ってからさらに大きくなって、自分自身の可能性を排除する概念になっていた感じだ。その原因は何かと思い起こせば、理系科目に学びのリアリティがなく、学ぶ興味と意欲を見いだせなかったからだと思う。これはもちろん自分自身の不勉強のせいであるが。三角関数、微分や積分、二次関数に行列、数列。式と証明・高次方程式、指数関数と対数関数、オイラーの多面体定理などといわれても、「こんなものは卒業したら、死ぬまで使うことはないだろう」といつも思っていた。定期試験や受験のためにあるだけで、それを実践利用する場面が全く思い浮かばなかったので、全く興味が湧かなかったというのが事実である。

 実際にその後も特に数学や物理の知識がなくても、生きていくことには困らなかったし、適材適所で、理科系の仕事は理系の人が行えば良いのであって、自分は文系の仕事を行えば良いのだと思っていた。ITの仕事に従事していながらも、特に理系脳を稼働させる必要がなかった。

 しかし昨今の技術的進化の加速度は、カーツワイルの収穫加速の法則を体現する勢いである。今後、リリースされる製品やサービスはIoTでネットワークに接続され、AIが判断し、協働ロボットやRPAが作業を執行していく社会(働き方)が当たり前となり、我々のサービスや製品も最新のテクノロジーを搭載しなければならないことは明白で、生き残りのための最低かつ必須の条件である。Industry4.0やSociety5.0は現実にやってくるのだ。

 私自身は経営者であり、自社の製品やサービス開発の方向性を決定する役割を持っている。10年ほど前までは、上記に関して経営者が求められることはマネジメント手法だった。コトラー、キャプラン、ポーター、ドラッガーの著書に親しみ、マーケティング、競合戦略などに経営者としての軸を置いていた。

 経営とは哲学である、と言い聞かされ、または自分に言い聞かせながら経営を行ってきた。もちろん今でもその大前提が崩れ去ったとは思ってはいない。しかしこれからの経営は哲学でありながらも、科学や技術でなければならない側面を増しており、経営トップは最低限の情報技術の知識(少なくとも最新テクノロジーへの理解)を有していないと、変化する社会のニーズから逸脱した経営しか行えなくなるように思う。

 こんな現在だからこそ、経営者は変わらなければならない。X-TechやDX(デジタルトランスフォーメーション)などにしっかり向き合った経営を考えなければならないのである。AIやIoTに反目し、「人間性が失われる」「ITが人間の仕事を奪っていく」などとアナログな悲嘆を声高に言ったところで、必ず社会は変わる。変化する社会の中で、人間の果たすべき役割や新しい倫理観、人間性が生まれてくるのであるから、徒なアナログ懐古主義は滅亡へ一直線であると言いたい。

 かたやこの変化は経営者にとって大きなチャンスでもある。旧態依然とした価値観が崩壊する場面では、正しく変化できるものが生き残り成長するのだから、すべての企業にチャンスがあるといえるだろう。また個人的にも価値観を改め、学びに実践のリアリティを持たせるチャンスであると思う。数年前、私も必要に駆られ、AIやロボットなど最新テクノロジーの勉強を始めたが、どうしても数式や法則の壁にぶち当たってしまった。致し方なく、40年ぶりに数学や物理の入門書を紐解いたが、今回はその後の製品開発、ビジネス展開というリアリティがあったので、学び直す楽しさがあった。

 何歳になっても実践のある学びは楽しくて、5年前には高校生に交じって数学の検定試験を受けた。それで全てがクリアになった訳ではないが、同じAIやデータ解析の本や論文を読んでも、読み飛ばす数式の数は減って、知識を習得しているという実感と新しい発見がたくさんあった。今では好きが高じて、相対性理論や量子力学、遺伝子科学、天体物理学など理系の本を読みあさっている。高校生の時には目を背けていたものばかりだが、この歳になって、その学びの実践と必要性というリアリティが学びの拡がりを作ったからだろうと思う。

 繰り返しになるが、学びから見た次のステージとは実践である。すなわち次のステージに接点を持つことによって、現在の学びにリアリティを与えることができるのだと思う。経済学や政治学、経営学もそれを活用する想像を持ちながら学ぶべきだ。学生にとって、次のステージとは社会である。故に学生には社会との接点を広く持ちながら学んでもらいたい。今日の言行が、明日の現実になるという経験や信念に基づく学びは、きっと学ぶものに楽しみを与え、それを加速し、豊饒なものにしてくれるに違いない。

 私も多くの先達に接点をいただき、人よりは多くの次のステップを見させていただいたと思う。「青は藍より出でて藍より青し」、出藍の誉れである。先達から受けた恩は、自分の成長と先達を越える後進を育成することでお返ししたい。

 学びの重要性は学生だけのものはなく、すべての生がその存在しうる限りの範囲で求め続けていかねばならないものだ。学生の次のステージが社会であるとすれば、社会人は何を己の次のステージにするのかが重要なことになるだろう。どのようなステージを想像するにしても、そこに信念があれば、学びのリアリティは必ず存在する。

2019年7月 抱 厚志