テクノロジーの反対にあるもの

ここ数年のテクノロジーの進歩、革新は目覚ましい。
特にITの分野では、日進月歩を超えて、秒進分歩と言ってもいい様相だ。
それに合わせて不況の時は下火だった展示会(EXPO)が大盛況で、毎日といっていいほど、日本のどこかでIoT、AI、RPA、働き方改革などをキーワードとしたイベントやセミナーが開催されている。
世の中の興味がITに集まっていることは間違いがない。

特にAIは俎上に載らない日が無いといっていいほどであり、「カーツワイルの収穫加速の法則」の到来を感じずにはいられない。随分と向こうにあると思っていたシンギュラリティ(技術的特異点:コンピューターが人間の仕事を奪い始めること)が現実のものと思えるようになってきた。

そうしたテクノロジーの発展は社会をより複雑化し、アンバランスな二極化を推し進めている。
加速しているテクノロジーの進歩は、人類の生存にとって諸刃の刃といえるだろう。

最近のITレポートでは、AIは人間から180万の仕事を奪い、250万の仕事を生み出すなどというポジティブな予測も出てきてはいるが、メガバンクの大規模な工数削減(という名のリストラ?)の発表や、AIの登場で無くなっていく仕事ランキングが注目を浴びるなど、潜在的な不安を煽る要素になっていることも間違いがない。

一方、それと並行して、「AIとどのように共棲すべきか?」「AIに取って代わられることがないものとは何か?」という議論が活発になりつつある。

ITがデジタルであり、無機質なイメージであるので、ITに取って代わられることのないものとは、アナログであり、コンピューターが踏み込みにくいと考えられている「人の心や感性」の分野(心理学的領域)にある様に論じられることも多いが、これは些か浅薄な考えと言わざるを得ないであろう。

ITは論理(ロジック)の上に構築されるので、一見、ランダムに作用すると思われる心理学や芸術が真逆の領域として注目されるが、実は心理学や芸術には一定のセオリー(理論)が存在するので、ITが適合しない分野であるとは言い切れない。

心理学の実験(臨床)から導かれる理論は統計学的な色合いが濃く、AIで言われる「機械学習」や「ディープラーニング(深層学習)」と基本的には同じロジックである。
そういう観点で見れば、科学といわれる分野の大半は「仮説と実証の繰り返し」であるから、基本的には機械学習やディープラーニングと同じ手法と言えるだろう。

また斯界では、心理学領域と同じように、AIが適応しないのは芸術的分野であると言われるが、昨今、ビートルズの全曲のスコア(楽譜)を機械学習し、現在にビートルズが存在すれば、このような楽曲を作っていただろうということを推論するような自動作曲システムも開発されており、絵画も画像認識、文学も自然言語処理などを応用すれば、同様の推論(AIによる創作)も可能になるのではないかと思う。
心理にも芸術にも、データやセオリーは存在し、必ずしもアナログとは言い切れないのである。

では、AIに取って代わられないもの、すなわちデジタルの対極にある究極のアナログとは何なのだろうか?

これは筆者の私見であり、異論噴出かもしれないが、AIに取って代わられることのないものとは「哲学」であると考える。
思うに哲学こそが、テクノロジーの発達を人類の成長の方向に正しく導くことができるものだ。

哲学とは以下のように定義されるが
『人生・世界、事物の根源のあり方・原理を、理性によって求めようとする学問。また、経験からつくりあげた人生観。
ギリシア philosophia (=知への愛)の訳語。「哲」は叡智の意。』
これは人間を含めた森羅万象、万物霊長のレゾンデートルの定義とも言い換えることができるだろう。

レゾンデートルとは、「存在する理由」や「存在価値」と訳されるフランス語であり、実存主義で用いられることが多い言葉である。
これは人が存在し続ける限り、追い求められる概念であり、それは決して正解の無い永遠の問答であると言える。

実存主義では、人間は自らの人生を自らの手によって切り開いて行くことが重要だと言われ、サルトルは「真の自由とはその制約からの逃避ではなく、むしろ心の深層への積極的な関与によって、初めて実現される」と説いている。
テクノロジーの進歩で社会の構造が複雑化し、無形の束縛を受けている我々は、積極的に自由を求める活動を行わなければならないという事か?

人間の存在理由は複雑であり、多様であり、矛盾に満ちているので、断言はできないが、AIが自らのレゾンデートルを追求することは、AI自体の持つロジックの破綻に繋がるのではないかと思う。

前述のように「自由」の定義ですら二面性を抱えており、哲学には絶対的な回答は存在しないので、AIが「自由」について推論を行ったとしても、常に真の自由、曖昧さを前にして回答には至ることはないだろう。

人間の持つ曖昧さは、人間の長所でもあり短所でもある。
成長するがゆえに生じる曖昧さもあれば、停滞するがゆえの曖昧さもあるだろう。
機械が許容する曖昧さと人間が甘受する曖昧さは異なるものだ。

「アイロニー」(それとなく気づかせること)
「ルサンチマン」(負け惜しみ)
「レトリック」(美しく飾り立てた言葉、実質を伴わない上辺だけの言葉)
「メタファー」(喩えであることを示さない喩え)
「カタルシス」(すっきりすること)
「イデオロギー」(思想の傾向)
「アイデンティティ」(自分が何者なのか分かっていること)

これらの言葉から考えられることは、哲学とは「無から有を生むことであり、有を無に帰することでもあり、AIには推論できない曖昧さ」を持つものという事であろう。

人間という無限の深層を持つ不可思議な生き物は、まだまだそのレゾンデートルを明確にできていない。

これからの社会を生き抜くために実装すべきものはたくさんあるだろう。
しかし敢えて推すなら「哲学」である。
生きることとは自己のレゾンデートルへの肉迫であり、そのメソッドの確立やプロセスの分析こそが哲学である。
ここには絶対的なロジックやセオリーは存在せず、その答えは自らが定義するものであり、これはAIには真似ができないだろう。

人の生き方にテクノロジーが深く関与し、複雑化が進んで、便利で住みにくい社会がやってくる。
経営者もまた同じで、経営とテクノロジーの相互補完関係、もしくはテクノロジーに取って代わられる領域もあるだろう。
しかし決して哲学に代替はない。

「経営哲学」という言葉があり、「哲学無きところに経営無し」ともいわれる。テクノロジーが進化し、収穫加速によって、指数関数的に変化を遂げるであろう社会であるゆえに、経営者は哲学を持たねばならないのではないだろうか。

ビスマルクは「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」と言ったが、それに「自然と科学から学び、哲学を持つ者が真の成功者である」と付加したい。

社会が複雑化するほど、人類のアイデンティティを明確にする必要がある。
アイデンティティとは「自分が何者であるかを分かっていること」である。
これはAIに踏み込めない領域だ。

2018年8月 抱 厚志