教える側が得る学び

春風が心地よい季節の到来。

とりあえず眠い。
『春眠暁を覚えず』とは、中国唐代の代表的な詩人で、襄州襄陽(現在の湖北省襄陽市)出身の孟浩然の『春暁』の冒頭の句である。
この一節はよく知られているが、ここでは全文を挙げてみたい。

『春眠暁を覚えず 処処啼鳥を聞く 夜来風雨の声 花落つること知る多少』

意訳になるが、以下のような意味となる。
「春の眠りは心地よくて、夜が明けたことにも気が付かず、目覚めなかった。
あちこちで鳴く鳥の声で、朝が来たことに気付いた。
昨夜はずっと風が強く、雨も降ったようだ。
その風雨でどれくらいの花が散ったことだろう。」

総じて言えば、春の夜は短く、気候もよいので、つい寝過ごしてしまうというのが一般的な解釈であるが、春になると夜明けの時刻が早くなり、冬と同時刻でも春になると外はすでに明るくなっているという意味で、「作者が寝坊したのではない」という解釈もあるそうだ。

いずれにしても夜更かしが多い私には、春の午睡は魅惑的である。
急激な気候の変化に身体がついていけない季節でもあるので、皆様にも十分に御自愛頂きたい。

話は変わって、1月にあるNPOからの委託を受けて、大阪市西淀川区の中学校で職業講話を行った。中学1年生の生徒に「働く楽しさとは何か?」「なぜ今勉強するのか?」「夢を実現するためには何をすればよいのか?」「IT業界の魅力とは何か?」など、90分講話させて頂いた。

この依頼を頂いた時は、いつも大学で話している内容をかいつまんで話せばよいのだろうくらいの簡単な気持ちで引き受けたのであるが、NPOの方から事前のオリエンテーションなどを受けていると、徐々に「そんなに安請け合いできるものではない」という事が分かってきて、年末年始の休暇はほとんどその資料作りに没頭していた。

資料作りとは不思議なもので、真剣に書けば書くほど伝えたいことが増えてくる。
自分の気持ちも高ぶってくる。
教えた子どもたちの中から、未来の豊かな社会を作るイノベーターが出てきて欲しいと真剣に考えてしまう。シナリオを何度も変更し、言葉を選びながら資料作りを進めて行く中で、いくつもの矛盾やジレンマに悪戦苦闘し、自分の知識や語彙の貧弱さに溜息をついてしまう。

教える側は教えられる側の10倍の知識が必要である。
教壇に立つとは、己の積み上げた知識と経験の壇の上に立つことだろう。しかし、積み上げた壇の基礎が疎かであれば、それは砂上の楼閣である。
基礎のない教えなど人には届かない。

比較的、語彙や表現方法を多く持っている方だと自認していた。
確かに書いたり話したりするのは得意で、それなりに独自のやり方も持っていた。正しく伝えるためには、豊富な語彙の中から最適な言葉を選べることがインテリジェントな会話であると思っていた。赤いものを見て「赤色」としか言えないのではなく、「朱色」や「紅色」「マゼンタ」「ワインレッド」などを使い分けて、その微妙な違いを伝えることが知性に富んだ会話だと確信していた。

これは一面では正しいと今も思っているが、これが通用するのは話し相手次第であり、大学生相手に朱や紅は通じても、中学1年生には少々難しい。
語彙の豊富さとは読書量や経験に比例する場合が多いので、弱年の中学一年生には言葉の種類ではなく、比喩が必要だ。「朱色」「紅色」ではなく、「血の色のようだ」「夕焼けを思い出す」などの比喩が一番伝わりやすいと感じた。
比喩についても、できるだけ具体的なイメージを描けるものを選択しなければならない。
という事は、私自身が現在の中学1年生の生活や興味、価値観などを知っておく必要がある。資料を書きながら、そこら中にドラえもんのピクチャを貼りまくることで生徒の気を引くことは、全くのナンセンスだと気付いた。

子どもたちに視線を合わせる。
これは『之を知るを之を知ると爲し、知らざるを知らずと爲す。是れ知るなり。』という事だ。自分が子どもだった頃の環境や価値観と、現在の子どもたちが持つ環境や価値観は似て非なるものである。子どもたちに視線を合わせてみても、知っていそうで知らないことが多い。

自分が教える側だからという形式に捉われず、知らないことを知ったと思える自分の本当の「知る」があるものだ。年下の子どもたちを相手にするから、より以上に謙虚でなければならないのであろう。

今回、言葉は分かり合うためだけでなく、話し合うためにあるのだと強く感じた。難しい言葉を使いながら説明をするよりも、簡単で平明な言葉を使って説明する方が遥かに難しいことを実感した。

カンバセーションとは意味を伝える事であり、コミュニケーションとは意識を伝える事だと聞いたことがあるが、まさに今回の授業はコミュニケーションの再定義であり、教壇に立つ、教えるという事に関して、自分にとってはコペルニクス的転回であったと言える。

子どもたちの興味の視線は恐ろしいほど動き回る。
子どもたちに教えるためには、注意力が散漫にならないように、常に興味の矛先や形を変える必要がある。子どもたちは、大学生や社会人のように忍耐がある訳でもなく、巨視的に講師の話を聞いている訳でもないので、飽きさせないことが重要であり、その為にはクイズやワークショップのような参加型の授業進行が効果的だと事前のオリエンテーションで聞いた。

個人的には、講演やセミナーをさせて頂く時に、あまりワークショップやグループ討議などは使わないのだが、今回の講義経験を通じて、インタラクティブで参加型の学びの効果や重要性を再認識させられた次第である。

子どもたちに伝えたこと。
「できると信じていた時からできないと思った瞬間に、リミッターの効いた努力しかしなくなる。そして可能性を失ってしまうのが人間だ。だからまずはやり抜いた自分を想像しなさい」
「分かっていない訳でなく、見えていないだけである。だから人は答えを知っているのである。」
「誰かのための強さは、自分一人のための強さを凌駕するものだ。」

こういう意味の事を、可能な限り平明に事例や比喩を交えながら90分。
授業が終わった時には何とも言えないやり切った感があった。大学で教えるのとは、また違う達成感である。

第4次産業革命、働き方改革など、世の中を変えるキーワードの実現を支えるキーワードはITだ。ITこそが社会の在り方を変えることができる可能性を持つテクノロジーなのである。
今回授業を受けてくれた生徒の中にITに興味を持って、将来のスティーブ・ジョブズやイーロン・マスクが登場してくれることを心から願っている。

後日、授業を聞いてくれた生徒一人一人から、手書きの感想文が届いた。平明な文書だが、感謝や感動などの温かい気持ちが伝わってくる。シンプルな内容だが、しっかり心に刺さる文章だ。また一つ、学ばせて頂いたような気がした。頂いた感想文はしっかりファイリングして、書斎の中でも机から手の届く書棚に置いた。今後、人を育成することに行き詰った時には、きっとこの感想文を何度も読み直すと思う。

大変だったが、授業をやらせて頂いて良かった。
こうした機会に私を指名して下さったNPOの皆様には心から御礼を申し上げたい。

現代の社会は、生きることにあくせくしすぎだ。
子ども達には『春眠暁を覚えず 処処啼鳥を聞く』のような四季の風情ある暮らしを築いてもらいたい。

2018年4月 抱 厚志