新型コロナウイルス感染症拡大の影響が長引く中、我々日本人にとって、オリンピックの開催は不安が付きまとい、心からそれを楽しむ気持ちになれない人は多いのではないだろうか。もちろん感染拡大もなく成功裏のうちに閉幕すれば本当に嬉しいことだが、不幸にも感染が拡大すれば一大事。現状では、伸るか反るかの大博打に近いように感じる。くれぐれも安全第一で進めてもらいたいものだ。
同じスポーツでも、日本人を、いやアメリカ人をも魅了するメジャーリーガー・大谷翔平選手の活躍には、心躍るものを隠せない。アメリカ人に比べて体力的に劣ると思われる日本人選手が、投打にわたる二刀流で大活躍し、ホームランではメジャーリーグのトップを独走し、オールスターにも選出された。投打に関しての評価が目立つが、走力もメジャーでトップクラスであろう。まさに走攻守の三拍子が揃った驚くべき潜在能力だ。
彼の活躍で盛り上がるMLB(メジャーリーグベースボール)だが、選手の活躍と並行して、最新のテクノロジーを駆使した放映とデータや記録に基づく評価が、この人気を支えているように思う。
MLBの試合放映にはAR(Augmented Reality:拡張現実)がフル活用されている。ARとは、実在する試合の風景にストライクゾーンや投球の軌跡、球速などのバーチャル視覚情報を重ね合わせて表示することで、見えている試合を“仮想的に拡張する”というものだ。同じようなシチュエーションで、どのようなコースにどのような球種を投げているのかなど表示され、見る側はデータを楽しみながら観戦が可能となる。
また最近は、投打や球団の記録やレコードについてもデータベース化が進んでいる。大谷選手がベーブルースの記録を100年ぶりに破ったなどの報道がなされるが、その記録はかなりマニアックであり、ある意味、強引なほどの比較指標の設定を感じる時もある。100年前の記録が本当に正しいのか疑問に思ってしまうが、データサイエンス好きのアメリカだからこそ、実現できるのだろう。
このように野球におけるStats(統計指標)は、ここ10年ほどで種類が大幅に増加した。筆者が知っていた野球のStatsといえば、打者は打率、打点、ホームラン数が三冠であり、三振、四球、出塁率、長打率などが参考程度、投手については、勝利数、勝率、防御率、奪三振数、奪三振率、与四死球数くらいだったと記憶しているが、現在のMLBにおけるKPIは、これらの何倍もの種類を有している。例えば、打撃指標ではOPS、RC、RCAA、RC27、XR、XR+、XR27、BR、BsR、IsoP、IsoDBABIP、wOBA、wRAA 、wRCなどであり、投手指標では、RSAA、WHIP、DIPS、FIP、QS、守備指標では、DER、RF、RRF、ゾーンレイティング、UZR、DRSなどが存在し、実はこれらはほんの一部のStatsである。
最近の大谷選手の報道でも出てくる、打球の初速、打球の角度、飛距離、方向などがほぼリアルタイムでデータ化されていることはご存じであろう。日本では聞きなれないBrls/BEEという指標があり、これはバットにボールが当たってインプレーになった打球(BEE)のうち、何%が本塁打になるための理想の角度(Brls=バレルゾーン)だったかという比率のことを指す。この項目で大谷選手は、7月12日時点で26.0%と両リーグ通じてトップの数字を残しており、2位がナ・リーグのタティースJr.(パドレス)の21.7%。また、ア・リーグで大谷選手と本塁打王を争うゲレーロJr.(ブルージェイズ)は16.7%であり、大谷選手とは大きな開きがある。すなわち大谷選手がホームランを量産するには、こうした科学的な根拠があったのだ。
そしてデータは、野球における戦略の在り方も変えている。例えば、我々が野球をやっていた頃は、「フライは打つな、ゴロを打て」と言われてきたが、統計的なデータ分析によると、プロレベルであればゴロよりもフライの得点貢献が高いことが明白となり、メジャーではこれを「フライボール革命」と呼んでいるそうだ。ランナーが出ると、ひたすら「当てて、転がせ」と言われてきた我々の野球は、過去の遺物になりつつあるのだ。これらの考えは1970年代に登場した「セイバーメトリクス」という分析理論がベースになっている。セイバーメトリクスとは、野球ライターで野球史研究家・野球統計の専門家でもあるビル・ジェームズによって提唱されたもので、アメリカ野球学会の略称SABR (Society for American Baseball Research) と測定基準 (metrics) を組み合わせた造語である。最近は、球場やグラウンドのタイプ、気候条件、時間、選手のバイオリズムなども加味した分析なども行われるそうだ。野球は娯楽であり、ベースボールは統計学という科学であるといえるのかもしれない。
視点を変えて、このメジャーリーグにおけるセイバーメトリクスを製造業に置き換えて考えてみたい。セイバーメトリクスは正に野球をDX(デジタルトランスフォーメーション)し、データドリブン(データ中心)のベースボールを生んだのである。つまり、一挙手一投足のデータを記録、分類、分析して、統計学的に、確率論的に一番効果的と思われる戦術を採用する。これと同じことがビジネスの世界でも求められているのではないだろうか。製造業の現場をベースボールの試合に、事務所をベンチに、会社を球団に、業界をリーグに置き換えてみれば、戦略の重要性は同じである。
しかし製造業のDXは遅々として進まず、経済産業省のDXレポート2でも、2025年の崖に向けたDX推進状況は思わしくないと報告されている。これにはいくつかの要因が考えられるが、一番大きなことはDXの全体像、言い換えれば目的や本質が明確になっていないことによる着手方法の不明瞭さにあるのではないか。一体、どこからDXに手を付ければよいのか、またどのように進めればよいのかが分からないので進まないというジレンマである。
また、デジタル人材やDX人材、データサイエンティストなどの必要性が声高に語られるが、中小企業にとって、それらの人材を採用、育成することは至難の業である。大体、それらの人たちは、現在の日本全体において圧倒的に不足しているのだから、中小企業に回ってくる可能性は極めて低い。しかし社内にそういう人材を育成する教育の仕組みや余力がある訳でもなく、さらに厳しいのは、それらの人材をアウトソーシングとして求めても、ITやコンサル側に確たる人物がいる訳でもなく、相変わらずプログラム開発にばかり手を取られるSIerやベンダーばかりがいて、まさに八方塞がりである。
しかし、個人的には先行きがただただ暗いとは思わない。データを起点に意思決定をし、行動を起こすことがデータドリブン、言い換えれば「DXの本質」だからである。デジタル人材やデータサイエンティストに必要な知識は3つあるといわれている。
<1>データエンジニアリング力
(プログラムを書き、データをハンドリングする知識)
<2>データサイエンス力
(データ解析を行う数学的知識)
<3>ビジネス力
(データの価値判断、データの応用的活用に関する知識)
の3つである。
これを具体的なスキルに落とし込むと
<1>Python、Javaなどによるプログラミング
<2>微分積分、線形代数、統計などを活用した数理的アルゴリズム
の作成
<3>自社のビジネスモデルや業界を熟知するマネジメント能力
といえるだろう。
ここで個人的な解釈で申し訳ないが、DXからみた必要性の度合いは<1>20%、<2>20%、<3>60%の割合ではないかと考えている。したがって、データドリブンな経営を行うためには、ビジネス力を発揮できる人材が一番求められるということだ。<3>でしっかりとしたデータ利活用の方向性を見出すことができれば、<1>や<2>はアウトソーシングでも問題ないし、ノーコード開発ツールを利用すればクリアできる。しかし一般的には<1><2>のスキルが前提になっているが故に、社内に適材を見出すことができないのであろう。
<3>も、ただ仕事を知っていれば良いというわけではない。既成概念に取り込まれることない斬新な発想、改革を牽引するリーダーシップ、組織を動かす行動力などが求められるが、<3>を一人でこなす必要はなく、適材適所の複数人で担当すればよい。
ここで話は戻ってメジャーリーグのStatsの話であるが、これらは事業におけるKPIと近しいものだ。ここでは詳細は語らないが、Statsの一つひとつの算出式は至ってシンプルなものであり、中学数学レベルでも十分に対応できる。
求める現象を発現させる要因を見つけて、要因が引き出されやすい前提条件をシミュレーションするだけだ。点を取る確率を上げるのであれば、得点圏打率の高い選手にチャンスが回ってくるようにしたい。そのためには、その打者の前に打率が高い選手か進塁打(もしくは犠打)が多い選手を持ってくればよい。また、対戦する投手のタイプ、例えば左右どちらの投手か、投げる球種は何なのか、どのカウントではどこへ投げるのが多いのか、場合によっては球場との相性なども加味すると、得点の確率は上がるかもしれない。逆に投手側はその裏を掻く手を繰り出すのだ。
これらの基本は常にデータである。
データドリブンなどというから難しいが、結局はシチュエーションをどんどん細分化し、一番効果的な選択をデータ中心に行う事であり、このロジックは野球に限らず、ものづくりにおいても同じなのである。現在はIoTやMESなどを利用して現場のデータを収集することが容易になった。財務や労務、各種のトランザクションデータなどの蓄積や連携も困難さが激減した。あるべき形とそれに必要なプロセスさえ明確化できれば、データ活用は難しくない。そしてデータに基づく意思決定は、何よりも明確で公平である。
StatsとARは野球を変えた。そしてそれは楽しい方向転換だ。
実際に2000年代、資金力のなかったオークランド・アスレチックスの上級副社長、ビリー・ビーンはセイバーメトリクスを重視したチーム改革を断行し大きな成功を収め、その改革を描いた書籍『マネー・ボール』および同書を映画化した『マネーボール』がいずれも興行的成功を収めた。データは野球にサイエンスを導入し、そのエンターテインメント性を大いに向上させ、ファン層を増やし続けている。ベースボールのDXは楽しく興味深いものといえるだろう。
ビジネスにおけるDXも同じようにエンターテインメント性があれば、もっと楽しく、もっと身近なものに感じられるのではないだろうか。DXを小難しく考える必要はなく、もっと楽しみながら推進していけば良いのだ。幸いなことにデータを分析するツールはラインナップが豊富であり、ノンプログラミングでイージーオペレーションのものが多いので、きっと楽しみながらデータドリブンな現場管理ができるはずだ。DXを複雑に捉えるのではなく、もっと面白いものと考えるところから始めることが、DX成功の突破口になるではないだろうか。
何にしても仕事は楽しい方が良いものだ。