不老不死を求めず、正老正死で生きる

 東京五輪が無事に閉幕した。
 無事かどうかは、これからの新型コロナの感染者数の推移や経済動向などによるとは思うが、スポーツと平和の祭典として、一定の役割を果たしたものと感じている。満を持して開催した五輪の期間中に、国内の感染者数が過去最多になったことは意味深長だが、五輪開催との因果関係が証明された訳でもなく、デルタ株の感染爆発が要因であり、五輪とは無関係の必然的なパンデミックであるのかもしれない。確かに盛り上がりに欠けた五輪だったと思うが、新型コロナの閉塞感で一杯だった日本の空気に、日本をはじめ、世界の選手たちの活躍や国際的な交流は、一服の清涼剤になったことは皆が感じているだろう。ゆえに向後、この五輪開催が政治の道具として扱われる可能性には嫌悪感を覚える。これは現与党にも野党にも等しく感じることだ。

 新型コロナはこれからも変異を繰り返し、ワクチンや治療薬の開発とのいたちごっこになるだろう。イスラエルでは錠剤型ワクチン開発が進み、コールドチェーンが不要なので発展途上国での普及に期待が持てると聞いた。また国内では、複数の製薬会社のワクチンが承認に向けて、治験の段階に入ったという。アメリカではファイザーなどの新型コロナ治療薬が年内にも承認を受けて、全米への供給が始まるらしい。新型コロナは、いずれインフルエンザと同じ扱いになると聞く。しかし、インフルエンザと同様の扱いになるまでには、まだまだ苦難の未来が待っているのだろう。国内には五輪閉幕で緊張感が緩むことなく、状況の変化にしっかり対応してもらいたいものだ。筆者も2回目のファイザー製ワクチンを接種し、気持ち的には少し楽になり、仕事の幅も拡げてみたいと感じる一方、ここは心して感染防止に努めなければと己に命じている。

 話は変わるが、先月に誕生日を迎え61歳になった。還暦からあっという間に1年が過ぎた気がするが、これも新型コロナで変わった働き方や人生観の影響であろうか。自分で言うのもなんだが、年齢の割に若く見え、新しいものが大好きで、仕事もプライベートもエネルギッシュにやってきたので、正直なところ、これまで自分にリアルな老いを感じたことはなかった。これからも当面の間、衰えを感じることなどないと思っていたのだが、ある仕事がきっかけでその妄想は打ち破られ、自分の年齢を再確認させられることがあった。

 3ヶ月ほど前に、15年来の友人である株式会社アントレプレナーファクトリー(略称:enfac)の嶋内社長から、生産管理、ものづくり経営、DXなど、最新のトレンドなどの教育用動画の撮影依頼があった。enfacは社会人教育に実績のある会社で、すでに数千本の教育用動画の配信を行っている実績のある企業である。今回、約100本の動画作成の依頼を受け、半分は社員に出演させて、残りの半分は自分が出演すると決め、オファーを受けさせて頂いた。

 自分自身の知識の整理にもなるし、社員にもリカレントな学びの必要性を感じてもらいたいとの願いもあった。1本が5〜10分程度のものであり、原稿を作成すれば、プロンプターを準備頂けるとのことだったので、原稿さえ準備すれば大丈夫だろうと軽く考えていた節もあった。しかし5月〜7月まで、たくさんのウェビナー登壇、それも新しいテーマの講演がいくつも重なり、その対応に追われるうちに、どんどん動画原稿準備は遅れていった。実際に原稿を書き始めても、自分の知識を最新のものにアップデートするための調べ物や全体の構成を考えながら書かなければならなかったので、自分が想定していた時間の何倍も必要になり、みるみるうちに時間的余裕が無くなった。毎晩、早朝4時くらいまで原稿書きが続き、それでも思うように進まないので、最後は夢の中でまで原稿に追われるようになり、まずは自分の知力と筆力に衰えを感じることになった。以前ならもっと集中できたのにと思う回数が増えた。

 納期と品質に悪戦苦闘し、enfacのご担当や弊社の企画担当に迷惑をかけながらも、何とか校了したのは、収録の2日前。収録で自分が話す予定だったので、少なくとも1週間前には校了し、原稿を読み込む予定だったが、ほとんどぶっつけ本番であった。本当に自分の爆発的な集中力を信じていたのだが、起爆に時間が掛かったのも老いなのかと思ってしまう。収録前日の深夜まで資料の修正を行いながらも最低限の原稿読み合わせをし、収録に臨んだ。自分で書いた原稿であったことと原稿読みが得意なこと、プロンプターなど充実した機器を準備頂いたことなどがあり、収録は順調に進んだ。

 40数本の収録なので、声の調子なども考慮して、enfacには2日間スタジオを予約頂いていたが、調子が良かったので、自ら「今日中に全部録ってしまいましょう」と申し上げ、休憩を挟みながらも、収録はその日のうちに終わりそうなペースで進んでいった。全部で8時間くらい収録をしていたのだが、変調が現れたのは最後の1時間。ずっとプロンプターの文字を見ながら、ひたすら集中し収録を続けてきたのだが、それまであまり無かった読み間違いや噛むことが増した。自分の集中力が切れてきているのが分かったので、心の中では自分に「集中、集中しろ」と何十回も言い聞かせたのだが、どうしても心が一つにならず、集中できずに読み飛ばしや読み間違いを繰り返してしまった。それが1時間続いて、収録のペースは大幅に低下、あと30分で終わるところに1時間以上掛かってしまい、最後は心のエネルギーが切れて、どれだけ自分に言い聞かせても集中できなかった。それでもスタッフのご協力もあり、何とか収録は無事終了したのだが、そこで自分の心の中を占めていたのが「自分は老いたのではないか?」という疑問だった。身体の老いについては、それなりの覚悟はできていたが、精神はまだまだ気合充溢であると自認していたので、どれほど気合を入れても集中できない自分に精神エネルギーの限界を感じた。

 老いは誰にでもやってくる。それは決して恐ろしいものでもなく、また不快なものだとも思っていない。要諦は正しく老いることではないだろうか?

 誰だって老いたくはないし、もっと言えば死にたくはない。中国の戦国時代を統一した英傑である秦の始皇帝は徐福に命じて、「東方の三神山に長生不老の霊薬」を探させた。しかし不老不死の霊薬など存在せず、日本や中国、朝鮮に徐福伝説を残しただけだ。人は必ず老いるし、死ぬのであるから、筆者は死ぬこと自体よりも、与えられた生を生き切らないことの方が怖い。そして受けた生を生き切るためには、正しく老いていかねばならないのだと思っている。

 「正しく老いる」というのは表現が微妙であるが、要は自分がコントロールできる範囲で、計画的に老いるということである。故に今回のように突発的に近い形で自分の年齢限界を感じたことはショックだったが、日が経つにつれ、自分にも思いの外、限界が近いところにあることを知って良かったとも思えるようになった。

 本当の勝負とは限界と感じた瞬間から始まるものだ。今回は正しく自分の精神のエネルギー限界を知ったわけであるから、ここから本当の勝負が始まるのだと思える。身体と違って、精神は加齢しても鍛えることができるはずだ。積み重ねていく経験が精神を豊かに、しなやかに、そして強靭なものに変えてくれるからである。まだまだ鍛え方が足りないなと思える自分には、まだまだ成長の余地があると信じよう。

 「不老不死」ではなく「正老正死」(正しく老いて、正しく死ぬ)という気持ちで、人生と向き合えば、まだまだやるべき事やできる事がたくさんあるはずで、それに気付ける自分であり続けたいと強く願う。そう願って生きていれば必ず成長し続けることができる。

 老いる事よりも成長しない自分を恐れていく。

 さて、そんなこともありながら、無事にリリースした
enfac社動画コンテンツ
『DX時代のものづくり ~生産管理の基本知識からトレンドまで~』
 https://www.enfac.co.jp/contents/dxm/

 関係各位のご尽力やご苦労の甲斐もあって、出来栄えは上々です。ものづくり関係に従事しておられる方、DXに興味のある方はぜひご覧頂きたい。

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