合理性の裏側にあるもの

 早いもので、今年も二月の半ばを過ぎた。
旧暦では如月と呼ばれる二月であるが、衣更着(きさらぎ)とも書かれるらしい。気候としてはまだ寒さが残っていて、衣を重ね着する(更に着る)月という意味だという。今年のように、二月になっても「最強・最長寒波」の到来で記録的積雪が続く状況では、まだまだ衣更着と呼ぶには、寒冷すぎる気候かもしれない。

 冬の空気は澄み渡る。
外出していても底冷えを伴う澄み渡る外気が、心の中に鋭角的に進入してくるような感覚に襲われることはないだろうか。何かに思索を巡らせていても、どこかで寒さに見透かされたような気持ちになり、思考の背筋がピンと伸びる気がする。冬とは自分に嘘をつけない、本当の自分と向き合うための季節といって良いかもしれない。
人は冬には正直になる。

 自分と向き合う時、筆者が訓としている言葉にドイツの鉄血宰相と言われたオットー・フォン・ビスマルクの「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という一文があるが、冬の澄み渡る空気の下では、学ぶ歴史の深耕も増すような気がする。経験だけではなく、歴史という観点で考えることは己の視座を高めることに繋がり、視座が高まるということは見渡せる視野が拡がるということだ。ビスマルクの言葉を筆者なりに少し補完すると、経験の裏側には常に感情があり、歴史の裏側には思想があるということになるだろうか。自分と向き合う時に感情に支配されるのではなく、思想の影響を受けるほうが、より大きな才能を開花できると考えている。才能とは課題の解決力であるが、思想(思考)とは課題の訴求力である。だとすれば、自らに課題を課し続けることができる人が「成長できる人」であり、成長できる人とは自らの思想を持つ人であると考えたい。言い換えれば、正しい思想を持たない人間が、正しく成長することはありえないともいえる。

 一般的に「心・技・体」といわれるが、ここにおいての「心」とは人の性根を指し、その人の持つ思想や行動原理であるといえる。つまり思想とは行動の理由や原因であり、目指すべき方向性やゴールでもあり、思想無き行動は単なる迷走といっても良いだろう。思想と行動は方向を同じくせねばならない。

 さて、近年では生成AIなどのテクノロジーの進歩で、一見、行動の合理化が進んでいるように見えるが、本当にそれは社会や人間のあるべき姿なのだろうかと疑問に思うことがないだろうか。社会では、「シンギュラリティ」といわれる人類とAIの主導権の逆転が、より現実味を帯びてきたと感じる方も増えていると思われる。実際、仕事の現場においてAIを活用する、活用しなければならない場面が増えてきた。DXの名のもとにデジタル化の必要性が大々的に取り上げられ、粉うことなき正論の如く語られている。

 個人的にデジタル化とはプロセスの合理化であり、標準化に伴うムダの徹底排除と考えて良いと思う。物事の選択は確率論によって行使され、決定は予想されるメリットの大きさに比定して実施される。これが高じれば、標準化という名目での個性の排除が行われ、抽象的との指摘によって、思想も排除される社会になる可能性もある。恐るべきことにこれは人間の思考放棄であり、思想の形骸化である。

 社会には一見、ムダに見えても無益で無いものがたくさんあり、逆もまた然りである。思想や志などもこの類(ムダ≠無益)のものであり、合理化やデジタル化という観点からすれば必ずしも有用とはいえないのかもしれない。しかし、世の中の大半の人が思想や志の必要性を感じていることは現実である。かくあるべしと考える形を理想とするのであれば、そこには物理的な形状だけではなく、精神的な体系も必要であろう。

 人間の大半は凡人である。ムダや無益の向こう側に真の価値を見出すことができる人が凡人ではない人である。哲学者のアルトゥル・ショーペンハウアーは「才人は、誰も射ることのできない的を射る。天才は、誰にも見えない的を射る」という名言を残した。合理化だけでは見える標的に限界があり、誰も見えない標的を見るには思想が必要だということに通じた言葉だと思う。

 現代の経営論ではデジタル化が重要視され、企業経営においても成功の分かれ目はビジネスモデルのデジタル化(DX)やデータの利活用だといわれることが多く、その分野で一定の成功を収める経営者が増えてきた反面、独自の思想を持った経営者の数が減ってきたと感じるのは筆者だけであろうか。経営が哲学や思想で語られるのではなく、テクニック論で語られる場面が増えたということである。

 64年生きてきて、自分自身に確固たる思想があるのかと問われれば、Yesと即答できるわけではないが、自分の行動や選択の根拠を説明できるくらいの思いはあると感じている。そしてその思いを原点とする選択や行動が常に合理性に富んでいるかといえば、答えはNoである。しかしそれは敢えて行うムダであり、確信犯的な無益である。自分の人生はムダや不合理に満ちており、とても合理的とはいえないものだが、「高く飛ぶためには、膝を折らねば飛べない。正しい志を持つ者だけが正しく膝を折れる」という思想があり、これまでに何度もあった苦境や経営の転換点でもこの思想を重要視してきた。

 リスクマネジメントの観点からいえば、早期にリスクを察知し、適切な対処(リスクの回避・低減・移転・受容)を選択することが重要であり、可能な限りリスクは回避すべきであるとされている。しかし、自分の経験ではリスク回避には限界があり、どこかでリスクと正対しなければ、逆にリスクに飲まれてしまうことがあると感じている。「リスクを取らないことが、一番大きなリスクである」ということではないだろうか。言い方を換えれば、一般的にリスクを回避することは合理的ではあるものの、そればかりに終始すると潜在的リスクが蓄積されて、課題の抜本的な解決にならない、リスクの先送り、肥大化に繋がる可能性を大いに危惧するということである。故に後進の経営者にアドバイスをする時は、リスクに正しく向き合う必要性を説き、人は経営者という仕事を選ぶのではなく、経営者というリスクと向き合う生き方を選ぶのだと伝えるようにしている。

 人は誰でも楽をして人生で成功を収めたいものだ。そしてその実現のためには才能が必要だと思われているが、天賦の才などほとんどあり得ない。現状に足掻いて、また足掻いて、最後にその努力が才能に変化するのではないかと思う。天は万人に均等な機会を与える。才人とは機会を待つために伏し、与えられた機会に敢然と立ちあがる勇気を持った人のことをいうのだろう。そこに当たり前の合理性など存在しない。

 成長とは変化であり、変化とは行動であり、行動は勇気から生まれる。そして、その勇気を育むものが志や思想というものだろう。

 物事には二面性があり、お互いの価値を補完している。
内があり、外がある。
陰があり、陽がある。
光があれば、影ができる。
心があり、体がある。
合理性があり、ムダや無益がある。
同じようにデジタルがあり、その対極に純度の高いアナログが求められる。デジタルに舵を切るほどデジタルの限界が見えてきて、真逆に存在するアナログが重要になるということだ。

 繰り返す。
「もの」には必ず二面性が存在する。
合理性に富んだビジネスモデルだけでなく、泥臭い志や思想というものの価値を再認識すべきだと思う。デジタル中心の社会に変遷しつつある中で、アナログの必要性の警鐘を鳴らしてみたい。

2025年 2月 抱 厚志

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