2025年、個人的に選ぶ3つのトピックス

 師走は慌ただしい。
「今年も時が経つのが早かった」「一年があっという間に過ぎた」
この類の言葉を何回、口にし、聞いたことだろうか。

 私自身、忙しさが昔と変わったわけではなく、新しい人との出会いや新しい経験が減ったとも思わない。認めたくはないが65歳になった今、体内の代謝低下が時間経過の感覚を早めているのだろうか。

 時間感覚というものには絶対的なものと相対的なものがある。短い時間に限っていえば絶対的感覚に優位性があるが、長い期間に亘っての時間感覚は相対的なものが多いだろう。10歳の頃の一年は自分のこれまでの人生の10分の1であるが、65歳になった現在の一年はこれまでの人生の65分の1になる。これが、歳を取ると一年を早く感じる大きな要因なのではないだろうか。分母が大きくなればなるほど、一年の感覚は小さくなっていくという仮説である。この仮説が正しいとすれば、これから加齢するにしたがって時間の体感速度はさらに早まっていくはずだ。

 時間には速度があるが、個人的には密度や質量もあると考えている。時間の密度を高めることには忙しさや楽しいことへの没頭、やるべき事への没入、計画的な時間の利用(消費)などがある。時間は使い方によってアウトプット(質量)や満足感が異なるものであり、ただ徒に時間を浪費するのではなく、綿密な計画や段取りの基に消費されることが時間の価値を上げる。そして、そのような時こそ、相対的な速度を早く感じるものではないだろうか。

 前述のように時間の質量とは時間の価値であり、成果(アウトプット)である。これを最大化するために、人は組織を作り、協力、協調を行い、計画を立て、何らかの代償を払っている。それに対し、無駄で無計画な時間ほど経つのが早いものだ。これは人生の大いなる無駄で無益である。
 「光陰矢の如し」というが、本当に毎日毎時を大切に生きていかねばならない。

 さてその矢の如く過ぎ去っていった2025年だが、今回は私なりに感じるトピックについて書いてみたいと思う。

 まず、最初のトピックは地元、大阪の『大阪・関西万博』だろう。
「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマに掲げ、半年間にわたって開催された。開催前は全くの不人気で、地元関西でもパビリオンの工事の遅れと度重なる建設費用の増大ばかりが話題になり、「世紀の失敗」になるだろうと言われていた。確かに関西以外の知り合いと話しても万博の話が出ることは少なく、たまに出ても世紀の失敗や建設費の高騰の話ばかりだった。しかし、結果は予想を覆して、2,557万8,986人の一般来場者を迎え、成功裏に閉幕した。1970年の大阪万博に足繫く通った私としては、当時の方が人は多かったという感覚だったが(会期183日間で6,421万8,770人)、今回の会場が狭かった分、終盤は人口密度が高かったように思う。

 予約システムの採用により並ばない万博のはずが並ぶ万博になり、最終的には並べない万博になったと酷評されたり、最終日までに使えない(もちろん購入者の自責であるが)多数の未利用の入場券が問題になったり、パビリオンの建設費の未払いで開催中期までパビリオンがオープンしないことがあったり、とかく話題が多い万博だった。公式キャラクターのミャクミャクも発表当時は散髪屋のサインポールと言われ、一部で気持ち悪がられていたが、最後はグッズの品切れが続出するくらいの大人気キャラクターとなった。

 このように万博はいろいろな意味で前評判を覆したのである。
理由はいくつかあり、まずは関係者の不断の努力が挙げられるべきであるが、個人的にはオールドメディアといわれるテレビ局の貢献が大きかったと感じている。開幕直後、予想通りに毎日の入場者が5万人程度の低調な日が続いたが、それでもテレビは関西万博を扱い続け、ニュースだけではなく、バラエティや情報番組などにも関西万博を取り込んだ番組の放送を行った。結果として、関西万博への興味は一気に高まったように思えた。SNSなどの社会進出が著しいが、まだオールドメディアの力も侮りがたいと感じた瞬間だった。

 かくいう私も最初は全く興味が無かったのだが、最終的にはあの大屋根リングをどうしても一周歩いてみたくて、最終週の混雑の中にまみれた。たった一度の万博だったが、最終週という事もあり、1970年の万博を思い出したり、ノスタルジーを感じたりもした。素直に良い体験だった。

 出だし不調の万博だったが、運営費収支の黒字ラインとされる来場者数2200万人を大きく超え、250億円程度の黒字になったのだから大成功だったといえるだろう。一方、来場者のインバウンド比率の低迷、複雑で操作が難しい予約システム、会場における多言語対応の遅れ、前述のパビリオン建設費の未払いなど、課題や問題が浮き彫りになった。良きにつけ悪しきにつけ大きな話題になったイベントだった。

 さて、次のトピックは『トランプ関税』である。
今年の世界経済における一番の話題(問題?)がトランプ関税だといえば、多くの同意が得られるのではないだろうか。トランプ大統領が自身を「タリフマン(関税男)」と名乗り、公約として掲げてきた関税政策の目的は以下の3つとされている。
貿易赤字の解消 :貿易不均衡の是正の手段とする
アメリカの歳入(税収)の増加 :財政赤字の解消。トランプ大統領が掲げた米国の国内企業への減税(法人税率の15%引き下げなど)による税収の目減りを関税収入で補う
外交戦略や貿易交渉のカード :交渉相手国に具体的な対応を迫る際に関税を圧力や手段として繰り出し、外交上の優位を作り出す

 最初にバカ高い関税を吹っ掛けておいて、最終的に、自国の優位に落とし込むのはトランプ政権の常道であるが、世界各国は今回もまんまとその手に乗せられてしまったといえるだろう。世界的に、米国の関税引き上げにより輸入品の価格が高騰し、その価格転嫁からインフレ傾向が高まり、その懸念から長期金利が上がるというのが一般的なロジックである。関税政策の観点から見れば、輸入価格の高騰と長期金利上昇による資金調達の制限から、企業経営にとって多くのデメリットとなった。最終的に日本の関税は15%になり、80兆円もの対米投資が義務付けられたが、その投資利益の大半をアメリカが享受するという、寄付とも呼んでもいい投資になった。1858年に締結された「日米修好通商条約」以来の不平等条約再来であるともいっても良いだろう。

 しかし、日本経済は強いのか、鈍いのか、高市総理大臣誕生のご祝儀相場として、日経平均が48,000円を超えたことに異常を覚える。国民の大半が足元の不安定さと日本経済の尻の据わりの悪さを感じているだろう。トランプ政権は支持率が大幅に下落しているので、来年の中間選挙に勝つために、更なる強硬な政策(奇策?)を打ち出してくるのではないかと危惧してしまう。いずれにしても、やはりアメリカの影響力が強いことが分かった一年だった。

 最後のトピックスは『AI技術に対する具体的なガバナンスの発令』を挙げたい。
AI技術の進歩は社会学的、あるいは生物学的な成長角度を逸脱し、それらでは予測し得ない指数関数的(エクスポネンシャル)な成長段階に入っている。特に生成AIの登場で、仕事・生活・社会の価値観や在り方が大きく変わりつつある。5~6年前に都市伝説的に語られていたシンギュラリティ(AIやロボットに人間の仕事が奪われてしまう)が俄然、現実味を帯びてきているといえるだろう。私の所属するIT業界でも、初期的なシンギュラリティが顕著である。以前は、プログラマー(PG)→システムエンジニア(SE)→プロジェクトマネージャ→コンサルタントという、エンジニア成長のプロセスがあった。もう少し細かくいうと、プログラマーはコーダーとプログラマーに分かれていた。ここでいうコーダーとは、PGあるいはSEから指示を受けて、コーディング(プログラムを書く)作業を行う人を指すが、現在ではその作業の大半は生成AIが行っている。

 弊社でも、新製品開発においてはプログラムの60%以上が生成AIによってコーディングされており、今では良いPGとは良いプロンプトエンジニア(生成AIにプログラミングの指示を与える人)と言い換えることができる。このことから、就職戦線ではPGはAIに取って代わられる職種と認識され、以前ほど人気のある職種ではなくなっているとも聞いた。AIは人類の最大の友にも敵(脅威)にもなり得る存在になりつつあると認識されている。

 このような流れの中で2025年2月、EUで「AI規制法」の段階的適用が開始された。これはAIに的を定めた世界で初めての包括的な法律であり、その厳格な規制内容は自由競争に近かったビッグテックやAI開発企業の方向性に大きな影響を与えた。この規制の影響で、ユーザー目標に基づき自主的に行動するエージェント型AIや、AIが生成したコンテンツを識別するための電子透かし技術(ウォーターマーク)の登場など、AIの信頼性向上と責任の明確化が加速した。日本でもAIの開発や活用を促進し、悪用リスクに対処するために、今年9月に「人工知能関連技術の研究開発及び活用の推進に関する法律(AI法)」が施行されたが、これは日本独自のAI戦略を本格化させるものである。

 これからの社会はAIやロボットなどの最新技術との共存・協働が大きなテーマであり、企業経営においては、このテーマの達成度がそのまま企業格差に繋がる可能性が高い。AIに使われるのではなく、使いこなす企業こそが強い経営を可能にするだろう。

 まだまだ書きたいトピックスはある。
世界各地で収まらない戦火、ビジネスで軽視される人権、中国の失速で危ぶまれる世界経済など、世界には問題や課題が山積みだが、2025年は幕を閉じる。自分自身にもいろいろ不慮の事態が多く発生した一年だったが、こうして自由に書くことができることに感謝したい。

 2025年もあと僅か。
 2026年をどう生きるか、今からしっかり定めておきたいものだ。

 本年も志士奮迅をご愛読頂き、ありがとうございました。末筆ながら感謝申し上げます。
読者の皆様も良いお年をお迎え下さい。

2025年12月 抱 厚志

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