目の前にどれほど多くの事実があったとしても、必ず真実に到達するわけではない。誰にでも真実のありかを感じる感性と認める勇気があるわけではないからだ。真実を見抜くためには、単なる視力ではなく、本当の眼力が必要であり、その眼力を養うためには、相応の学識と既成の概念にとらわれない自由な発想が求められる。
「万有引力の法則」は誰もが知っているだろう。
ニュートンが発見したこの法則は、自然科学の歴史の中でも、ひときわ光彩を放つ存在であり、その功績は高く評価されている。しかし個人的には「引力の発見」ではなく、「万有と定義」したことに、この法則の真の価値があるように思っている。ニュートンがリンゴの実が木から落ちるのを見て引力に気付いたという逸話は有名であり、多少の脚色はあったとしても、大筋、事実であるだろう。しかしそれは事実であり、真実とは少し距離があるように思う。
紀元前より引力の存在は認められており、ニュートンまでの時代では、アリストテレスの四元素説が広く一般的に認知されていた。アリストテレスは火、空気、水、土の4つを「単純物体」と呼び、万物の基本的な構成要素として定義した理論である。四元素論はアリストテレスと同じギリシャの自然哲学者であるエンペドクレスが最初に唱えたと知られており、それをアリストテレスが発展させた。リンゴは土の属性であり、元の属性である土に帰するための引き合う力を引力と考えたのがアリストテレスの四元素論で、リンゴが地上に引き寄せられる(落ちる)力が存在することは、以前から明確化されていたのである。
話はニュートンに戻るが、ニュートンの発想が非凡であるといえるのは、彼が「リンゴは地上に落ちるのに、なぜ月は地上に落ちてこないのか」と考えたことであり、この発想の非凡さが万有引力の法則発見の真実であると思う。自然科学がまだ発展の端緒についたばかりの当時、物理と宗教はその関係を切り離して考えることができず、「天上の神の世界」と「地上の人の世界」は異なる世界であり、その各々に独自のルール(物理法則)があると考えられるのが一般的であった。つまり、太陽や月や天空の星などは地上とは別の神の世界と定義されていたのである。しかし、ニュートンは天上の月と地上のリンゴには等しく引力が作用していて、天上と地上の区別なく、全てのものに引力は等しく作用するのではないかと考えた。ここに万有引力の法則発見の真の価値がある。
コペルニクスが地動説を唱えたのは、ニュートンの100年以上前であり、自然科学が発展したとはいえ、まだまだ科学のあり方は宗教観の影響を受けていたであろう。その中で天上を神の世界としない万有引力を唱えることには大きな社会的な抵抗があったと推測される。しかしこれに抗うことが、自然科学の在り方を大きく発展させたとも言える。
ニュートンのリンゴが落ちるという力を月にまで拡げたその思考の素晴らしさに、脱帽せざるを得ないものであり、21世紀である現在においても必要とされているものだろう。このような思考の拡がりは、デジタルトランスフォーメーションで求められる今の時代のイノベーションにも通じるものである。
ニュートンが構築したニュートン力学は、我々の目に見える範囲の物理を正しく表現し、20世紀に入るころには、もう物理学がこれ以上発展することはないとすら言われ、それは時空と重力を人間の可視的な範囲を超えたところで定義したアインシュタインの「2つの相対性理論」、そしてハイゼンベルク、パウリ、ボルン、ファインマン、シュレーディンガー等の多くの科学者によって確立された、極限の小さな世界(素粒子)である「量子力学」が登場するまで続いた。ニュートン力学は現在でも可視的な分野において絶対的な存在であり、我々は当たり前のように、月にもリンゴにも引力が働いていることを知っている。
ニュートン力学後の新しい物理学を切り拓いたアインシュタインは、偉大な先達であるニュートンについて
『ニュートンにとっての自然とは開かれた本であり、彼はそこに記された文字を苦もなく読むことができた。』
と評している。偏見や既成概念を捨てて、真っ向から自然と向き合ったニュートンだからこそ、天上と地上を統一する理論を構築できたということであろうか。
人は生き続ける中で、自分の中に偏見や思い込みの常識という固定概念を作っていき、それが自分のアイデンティティになってしまう場合がある。ニュートンが、既成概念や常識を超えて真実と向き合うには、それまでの知識と経験という積み重ねを否定しなければならない恐怖を伴うのが当然だったと思う。しかし勇気が恐怖を克服した瞬間に成功の道が開けるものであり、その勇気は大きな志や探究心から生まれるものだと信じている。
人間は夢を持ち、自分の可能性を信じるが、何らかの切欠で「できない」と思った瞬間に、自分の努力に制限をかけてしまい、結局は自分で自分の夢を諦めてしまう。結局、人間の真の才能とは、天賦のものではなく後天的に己の中で育むものであり、夢を手にするのも手放してしまうのも自分次第だということだ。
このような継続の重要性について、ニュートンはこのような言葉を残している。
『もし私が価値のある発見をしたのであれば、それは才能ではなく、忍耐強く注意を払っていたことによるものだ。』
夢を実現するためには、忍耐強く考え続ける心の強靭さが必要である。そして誰かのためにある強さは、自分一人のためにだけある強さを凌駕する。その誰かを自然科学の発展という目標に定めたニュートンの強さは、無類の強さを持っていたに違いない。
弱い人間は問題の解答を「正解」という一つに集約したがるものだ。しかし正解を一つと決めつけてしまえば、それ以上のものを見つけることはできないだろう。この世の問題において、その全てが一つの正解で成り立っているわけでは無く、正解を導き出したと思った瞬間から、その正解に疑いを持ち、他の解釈を模索し続けることが、真実の探求といえるのではないだろうか。
リンゴの落下を見て、万有引力を発見したニュートンは、「分かっていないわけでなく、見えていないだけで、心の傾きを変えることで、誰もが答えの存在に気付くこと」を証明したのである。
何においても、考えることをやめた者には得るものは少なく、探し続ける者にしか、真の答えは見つからないのだと考える。