さて、前回の産業革命に続いて、今回も生産管理史を紐解いていきたい。
産業革命は簡単にいうと農業社会から工業社会への移行、ものづくりは家内制手工業から工場制機械工業への転換であり、この工場制機械工業への転換で大きな役割を果たしたのが工作機械の進歩である。この工作機械の進歩で大量生産や複雑な加工が実現し、マス・プロダクションの原形が出現した。
工作機械の歴史は旋盤の登場に始まるといわれている。古くはルネサンス期において、レオナルド・ダ・ヴィンチのスケッチに、旋盤やネジ切り旋盤、中ぐり盤や内面研削盤などのアイデアが残されているが、実際にその優秀なアイデアが工場で活かされるようになったのは、ダ・ヴィンチの発案から200年以上も経ってからのことであったといわれている。
その後、ルネサンス期からバロック期にかけて時計製作を中心に、精密工作と装飾品加工の分野が発展し、工作機械の下地を作った後、産業革命期に至る。
産業革命においては、いくつかの革新的な工作機械の登場があるが、まずは1774年にジョン・ウィルキンソンが開発した「中ぐり盤」を挙げたい。
ウィルキンソンは、イギリスの工場経営者で鋳鉄技術の先駆者である。産業革命時代には兵器の製造を中心に鋳鉄技術が発達したが、ウィルキンソンは大砲や鋳鉄製橋梁(アイアンブリッジ)など多くの鋳鉄製品を製造した。中ぐり盤も砲身の製造のために開発された。また溶解炉の高温化を実現させ、生産効率を上げるための送風機の改良なども有名である。余談になるが、ウィルキンソンは“Iron Madness”と呼ばれ、自分の身の回りのものなどを全て鉄製にしていた。1808年に没し、棺や墓の飾りも鉄製とするほどのこだわりであったという。
次は1800年に開発されたヘンリー・モーズリーの「ねじ切り旋盤」である。
ヘンリー・モーズリーは、イギリスの技術者・発明家で、その実績が高く評価され、「工作機械の父」といわれる。スライドレスト付き旋盤で開発した技術を応用し、産業用として初の実用的な「ねじ切り旋盤」を開発した。刃物を固定した台を一定の速さで移動させることで、円筒形の金属に一定の幅を持つねじ山を切ることに成功し、精度の高いねじの大量生産が可能となった。このねじ切り旋盤によって、ボルトとナットの互換性が実現された。その後も船舶用の蒸気機関、テムズトンネルのシールドマシンや排水用の蒸気ポンプなどの提供も行っている。またモーズリーの工房は、多くの優れた機械技術者たちを世に送り出したことも大きな功績といえるだろう。
部品の互換性でいえば、イーライ・ホイットニーを外すことはできない。
1765年、アメリカで生まれたホイットニーは、「綿繰り機」「フライス盤」を発明した。特に綿繰り機は産業革命の進展に大きな影響を与えた発明で、南北戦争以前の南部のプランテーション農業経済発展に大きく寄与し、それが間接的な南北戦争の原因になったといわれている。互換性は「Interchangeable:交換ができる、互換性のある」と訳すが、この部品の互換性確保により、大量生産(Mass Production)が実現した。
次は1818年にトーマス・ブランチャードが開発した「ならい旋盤」である。
ブランチャードはアメリカの発明家であり、互換性生産による組立ラインのスタイルを構築し、ならい旋盤を発明した。この機械はモデルをトレースして材料を旋削し、目的の輪郭を自動的に生成することが可能で、銃床切削機として多くの兵器廠で採用され、互換性部品の大量生産を実現した。また、ブランチャードはアメリカで最初の自動車を発明したが、これは蒸気を動力源とする「馬なし馬車」と呼ばれていたそうだ。
そして工作機械の最後は、ジョセフ・ホイットワースの「自動盤」を挙げたい。
ホイットワース(ウィットワースとも呼ばれることもある)は、イギリスの機械技術者。1833年に工作機械工場を興し,旋盤など新型の工作機械を製造したほか、定盤、測長機、円筒ゲージなどを考案した。ホイットワースが製造した工作機械は規格が厳密で、部品交換が可能なことが特徴であり、近代工作機械と精密工作法の基本を確立し、指導者的役割を果たした。1841年には「ねじ標準規格」を提唱し、現在もウィットねじとして利用されている。
このように、産業革命期には多種多様な工作機械(専用機や単能工作機)が発明され、工場制機械工業を発展させた。その後も工作機械にはさまざまな改良が加えられ、19世紀末頃には現在まで利用されている工作機械の原形が完成した。20世紀に入り、電子技術が発展すると工作機械はNCやCNCへと変遷し、その能力を飛躍的に高め、現在もなお、進化中である。
一方、産業革命期のイギリスにおいては、工作機械の導入で熟練手工業者たちが多数失業し、彼らによる機械打ちこわし運動(ラッダイト運動)が社会問題となったりもした。これは機械を利用し、大量生産を前提とする資本主義工業に対する手工業者・マニュファクチュア労働者の反撃の試みであったが、1年後にほぼ鎮圧された。いつの時代も大きな社会構造の変化は、新たな社会問題を引き起こすものである。
さて、ここまでで産業革命と工作機械の登場が大きな社会インパクトになったと論じたが、ここからが生産管理史の本論となる。今後はものづくりや工場経営、生産管理、現場改善、組織改革などのコンセプトや研究を中心に展開する。
まず、生産管理やものづくりを語る上で産業革命と同様に外せないのが、アダム・スミスの「国富論」である。
1776年に出版された国富論(全5篇)は、近代における経済学の原点であり、社会思想史上で最も著名な古典に位置づけられている。アダム・スミスは、1723年生まれのイギリスの哲学者・倫理学者・経済学者で、国富論以外に「道徳感情論」という本も著述している。
国富論の原題は「諸国民の富の性質と原因に関する研究」であり、個人の利潤追求(利己心)に基づく労働が「見えざる手(invisible hand)」に導かれて社会秩序を生み、最終的には国の富を増大させるという考えで、当時、主流であった重商主義を批判し、自由放任経済(レッセフェール)を唱えた。よって、国富論は資本主義による社会構造を最初に俯瞰したものであるといわれている。
国富論とものづくり(生産管理)の関係で重要なことは、アダム・スミスが国富論において「分業の原理」と「資本の蓄積」を唱えたことである。分業とは、作業効率の向上を目的に行われる生産過程における役割分担の仕組みである。現在でこそ分業は当たり前のことであるが、当時のものづくりは家内制手工業が主流であり、自己完結する職人的ものづくりが中心だったため、労働生産性は高いとはいえなかった。低い労働生産性は社会に物質的貧困をもたらす。そこでアダム・スミスは、社会が物質的に豊かになるために、従うべき原理は分業と資本蓄積であり、最も重要なことは分業による労働生産性の向上であると説いている。
彼は分業による労働生産性向上のロジックを以下のように考えた。
① 単純作業によるスキルアップ
同一作業の繰り返しにより、作業に対する熟練度が高まりスキルアップする。
② 作業時間の短縮
分業により自身が担当するべき作業を特定することができる。これにより、全体の調整、確認などの作業を省くことができ時間短縮に繋がる。
③ アイデアの創出
作業のスペシャリストとしての専門化が進み、さらに効率化を図るアイデア創出が容易になる。
アダム・スミスはこの工場内分業を発展させ、社会における分業=職業の分化にも言及し、分業の進展が生産力の向上、最終的には商業社会の発展につながると説いた。分業の効果で生産性が向上すると、生産物の増加で「もの」が社会全体に行き渡り、最下層の人々の生活水準を引き上げる。しかし、それは分業により正当な報酬を得ることができるという保証や前提があってこそ実現するものなので、市場にフェアプレイの精神が定着することの重要性を唱えた。そして、これが実現すれば、見知らぬ他人の労働による生産物によって、自らの生活を支えていくことができる商業社会が到来するという論旨なのである。
実際にものづくりにおける分業は進み、産業革命によって、工場は家内制手工業から工場制機械工業へと移行し、生産性を大幅に向上させていった。国と民が物質的に豊かになり始めたといえる時期である。
生産管理や経営工学を語る上で、概念としての起点を国富論においてみた。
分業の原理は進化し、フォードシステムやマス・プロダクションへと展開されていく。
後出しになって申し訳ないが、本ブログにおいて、その骨子策定には以下の書籍を主たる参考文献にさせて頂いた。
1. 現場長のための「生産管理事典」(実践経営研究会編)
2. 続・現場長のための「生産管理事典」(実践経営研究会編)
私が起業したころに出版された書籍で今は販売されていないが、今でも読み返し重宝している。
2022年10月 抱 厚志