【第2回】近代社会の曙、産業革命

 これまでの人類の歴史において、文明を画期した大きな出来事が2つある。 1つは紀元前7000年頃にメソポタミアにおいて始まった「農耕革命」であり、もう1つは18世紀のイギリスで始まった「産業革命」である。今回はその産業革命をテーマに、近代社会の曙について論を展開していく。

 余談にはなるが、産業革命によって生まれた物質文明は、現在において過去2つの農業革命、産業革命に匹敵するような大きな変革を生みつつあり、それをアルビン・トフラーは人類史における「第三の波」と呼んでいる(第2の産業革命と称されることもある)。

 生産管理史を語る上で起点となるのは産業革命であると前回も書いたが、産業革命とは、簡単にいえば「生産活動の中心が農業から工業へ移ったことで生じた大きな社会変化」であり、農業文明社会から工業文明社会への移行のことを指す。この工業化は18世紀のイギリスが発祥だが、その後、ヨーロッパ諸国、アメリカ、日本、ロシアなどに拡大し、20世紀に入ると、中国、韓国、東南アジア、中近東、ラテンアメリカ、アフリカ諸国など全世界へと波及していった。産業革命という言葉を最初に使ったのは、経済学者ジェローム・アドルフ・ブランキで、それは1837年であった。その後、フリードリヒ・エンゲルスやアーノルド・トインビー等が著作などで利用したことによって、学術用語としても認められるようになった。そして、産業革命は市民革命と共に、近代とそれ以前を分ける境界線として考えるのが一般的となった。

 産業革命の発祥はイギリスであるが、イギリスで産業革命が始まった要因はいくつか考えられる。

  1. 原料供給および製品を販売する市場として、植民地を持っていたこと
  2. 清教徒革命や名誉革命による社会環境(経済・政治)が整備されていたこと
  3. ヨーロッパとアフリカ大陸・アメリカ大陸を結ぶ「三角貿易」で、巨額の利益をあげており、蓄積された資本が潤沢で、資金調達が容易であったこと
  4. 農業技術の発達(イギリスでは「農業革命」という)による、余剰の労働力を保持していたこと
  5. 機械を製造するために必要な鉄、その原料となる石炭や鉄鉱石などの資源に恵まれていたこと

などを挙げることができるだろう。イギリスと同じような条件が揃っていたフランスに産業革命が起こらなかったのは、フランスが1.の植民地を持っていなかったからといえる。こうしてイギリスでは植民地を大きな市場として、産業革命が綿織物工業の技術革新を中心に始まっていく。

 以下に、綿織物工業における革新的技術革新を並べてみよう。

1733年 ジョン・ケイが織機に部分的改良を施した飛び杼(とびひ)を発明、織機が高速化した
1764年 ジェームズ・ハーグリーブスが8本の糸を同時に紡ぐことができる多軸紡績機であるジェニー紡績機を発明、紡績が高速化した
1770年 リチャード・アークライトが綿をローラーで引き延ばしてから撚りをかける水力紡績機を開発。大型の機械だったため、動力源に水力が使われた。大量生産が実現し、本格的な工場制機械工業が始まった
1779年 サミュエル・クロンプトンのミュール紡績機が誕生。綿糸供給が改良され、細くて丈夫な糸の生産が可能となる
1785年 エドモンド・カートライトが蒸気機関を動力とした世界初の動力式織機を発明。さらに生産速度は向上した
1793年 アメリカのイーライ・ホイットニーが綿繰り機を発明し、梳毛が大幅に改良され、大量の原綿供給が可能となった

 上記のように、継続的な改良が実施された結果、綿織物工業において生産性向上が加速されたイギリスの綿織物生産は激増し、1802年にはイギリスの主力産業であった毛織物輸出を上回った綿織物が新たな主力産業となった。

 またこの時期に、繊維業と並んで産業革命を推進したのが製鉄業である。以前から鉄製品の需要は高まっていたが、当時は製鉄に木炭を利用していたため、イギリス国内において深刻な木材不足が生じ、海外から鉄を輸入する事態となっていた。その状況を打開するため、木炭に代わる石炭の利用が試みられたが、石炭の成分が問題で良質な製鉄が困難であったため、実用には至らなかった。

1709年 エイブラハム・ダービー1世によりコークスを利用した製鉄法が開発されたが、この方式が普及するには、以後、数十年の年月を必要とした
1735年 エイブラハム・ダービー2世によって改良が加えられ、コークス製鉄法はイギリス全土に普及していった
1740年代 ベンジャミン・ハンツマンがルツボ製鋼法を開発し、良質の鋼鉄の生産に成功したが大量生産には適さなかった
1760年代 ジョン・スミートンが高炉用の送風機を改良し、送風効率が大幅に改善された
1784年 ヘンリー・コートが攪拌精錬法を発明し、良質の錬鉄の大量生産が実現した

 このような産業革命の進行に合わせ、産業機械製造や鉄道建設のための鉄の需要が高まることで、産業機械の発明と発展はその機械を製造する機械工業を生み、さらに機械や部品を製造するための加工技術も大いに発展した。これらの産業機械の登場は、生産管理史にも大きな影響を与えているので、次回以降の連載で説明することにしたい。

 続いては産業革命期における動力源(エネルギー)の革新についてである。18世紀の初め、木炭に代わり石炭が利用されるようになると、その採掘のための炭鉱における地下水処理(排水)が大きな問題となった。

1712年 発明家のトーマス・ニューコメンが開発した排水ポンプには蒸気機関が用いられ、排水効率はまだ悪かったが、炭鉱の排水が改善され、石炭を増産した
1765年 ジェームズ・ワットが復水器を独立させた蒸気機関を発明し、蒸気機関の能力が大幅に向上した。実用化にはしばらく時間を要したが、1776年に、最初の実用的なワット式蒸気機関が完成した
1781年 ワットは遊星歯車機構(装置)により、蒸気機関のエネルギーをピストン運動から円運動へ転換し、この改良によって、さまざまな産業機械に応用されるようになった。動力源が水力から蒸気へ移行することにより工場は河岸を離れ、都市部に建設が可能となったが、人口都市集中による過密問題や排煙などの環境問題を引き起こすことになる
1800年 リチャード・トレビシックが蒸気機関高圧化の改良を行い、出力を急増させたことにより、蒸気機関の多用途化が進む

 一方、産業革命においては、イギリス国内における輸送手段の革新も重要な役割を果たした。まず輸送手段の革新が起こったのは運河である。ワースリー炭鉱とマンチェスターを結ぶブリッジウォーター運河は、マンチェスターにおける石炭価格を半額にまで引き下げるほどの大成功を収めた。以降、これと同様のものが増え、18世紀中盤からの約100年間は、イギリスにおいて運河時代と呼ばれる時代が現出し、この運河網の充実が、大量輸送を実現し、産業革命を支える原動力となった。また、陸上輸送は17世紀から鉱山において木製レール上にトロッコや貨車を走らせたりしていたが、18世紀後半には鋳鉄製レールが利用されるようになり、以後、マカダム舗装の実用化など改善が続けられた。

(出典:Time-AZ.com)

 しかし輸送・移動における本当の大きな改革は、蒸機機関の実用化から始まった。まず水上では、1807年にロバート・フルトンが蒸気船(外輪船)を製造、その外輪船は波浪に弱かったので、河川の航行しかできなかったが、その後、スクリュープロペラの開発で外洋での航行も可能となり、輸送力が大幅に向上した。

 次に陸上では、1804年にトレビシックが蒸気機関車を発明した。初期の蒸気機関車は実用的なものではなかったが、ジョージ・スチーブンソンらによって改良され、1825年には世界最初の商用鉄道が開通した。その後、鉄道の普及は加速し、1850年までには約6000マイルの鉄道が開通し、陸上輸送の中核を担う事となった。イギリス以外でもアメリカ、フランス、ドイツ、さらにはロシアなどで鉄道が開通し、各国は鉄道網を充実させ、これらの一連の革新は「交通革命」と呼ばれている。このように産業革命において、鉄道の敷設、拡充は必然の条件となった。

 1760年代から1830年代まで続いた産業革命によって、社会の様相は激変した。農耕従事者が減少、商工業従事者が急増し、都市部への定住者が大幅に増加した。都市部における工場の増加は、生産システムの変化を呼び、それまでの家内制手工業から工場制手工業へ、そして工場制機械工業へと変化していった。こうした社会構造の変化の中で、富の集中や階層分化が生じ、資本家層と労働者層の二極化が進んだのが産業革命期である。まさに産業革命は、経済だけではなく文化や社会なども大きく変革させた、近代社会への曙ということができるだろう。

 次回は本章で前述した産業機械発明の経緯、「アダム・スミスの国富論」について触れてみたい。

2022年9月 抱 厚志

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