前回は生産管理(経営工学)の原点として、アダム・スミスの国富論を挙げた。アダム・スミスが説いたことは「分業のすすめ」と「資本の蓄積」で、特に分業は工作機械の進化もあって、産業革命期の生産性向上に大きな貢献をした。工場制機械工業への移行により、資本家は大きな富を得たが、それは同時に新たな社会問題も生み出した。ラッダイト運動(機械打ちこわし)などは、産業革命によって職を失った手工業者の社会的不満の爆発であったし、都市部への人の集中、環境汚染、劣悪な労働環境、そして社会階層的な貧富の差の拡大などが表面化した時代でもあった。
こうした社会変化に疑問を持ち、新しい取り組みや思想、概念などが登場したのもこの産業革命期である。この変化の中でまず挙げておかねばならないのは、劣悪な労働環境を改善するために工場法などの制定に尽力した実業家であり、社会革命家、社会主義者でもあったロバート・オーウェンであろう。彼の社会改革への取り組みは「工場制度」と呼ばれている。
ロバート・オーウェンは北ウェールズの小手工業者の家に生まれ、10代は奉公のために多くの商店を転々とし、数多くの現場を店員として経験した。オーウェンは紡績工場の技術革新に注目し、生産性向上への取り組みを実施する中で、マンチェスターの紡績工場(ピカディリーミル)のマネージャーとして頭角を現すようになる。技術革新を前面に押し出した工場経営で成功を収め、オーウェンは大きな富を得た。
若年から多くの現場を経験してきたオーウェンは、工場における劣悪な労働環境や労働条件に心を痛めていた。工場労働者を「不幸な地位に置かれている人」と考え、「これらの不幸な地位に置かれている人々を、彼らが実際にあるがままに、無知な悪い境遇の被造物だと考えなければならない。それらの人びと(労働者)は、彼らを囲むようにされてきた劣悪な環境のために、今日のような状態になったのであって、それに対して責任を負うべきもの、ただ社会のみである」(「オウエン自叙伝」より引用)という社会主義的な考えを持つようになり、当時では先進的で革新的な労働現場の改善や教育普及活動を展開した。
具体的には、資本家のためだけの工場ではなく、資本家と労働者が共同で経営する理想的な工場経営を目指して1800年にスコットランドのニューラナークに紡績工場を作り、その工場で「環境決定論」に基づく実験的な労働条件の改良に取り組んだ。環境決定論とは「人間の活動は環境によって決定される」、つまり、労働環境の改善によって労働者や組織に優良な性格の形成を促せるとする思想である。オーウェンは就業規則と雇用条件を定めて、工場内の規律・訓練・節制を中心に厳格な労務管理を実施するとともに、雇用条件や作業環境の大胆な改善を行い、労働者に有利な賃金と待遇を提示して、彼らの人心を掌握した。規律ある労働で工場の増産を実現し、品質向上と商品開発に注力して、生産性と利益の向上を実現したのである。この労働者の雇用条件や作業環境の改善が、労働者や組織のモチベーションを向上させ、業績に連動するという事実を重要視し、それを「繁栄の法則性」と定義した。
オーウェンの紡績工場では、工場に附属する小売店や幼稚園などが設けられ、実験的な工場村となっていったが、その工場経営に大成功し、「綿業王」と言われるようになった。当初のオーウェンは産業資本家であり、技術革新による生産性、そして労働条件や労働者の生活環境の向上は工場経営(収益向上)にも大きなメリットがあると考えて、社会改革を推し進めようと取り組んだともいえる。
イギリスでは、劣悪な労働環境が社会問題として深刻化する中、労働者保護立法が行われるようになった。その初めが1802年の工場法(徒弟法)であるが、その内容は不十分で労働者に十分な保護が行われたとはいえなかった。そのような中でマンチェスター保健局が設立され、その一員であったオーウェンが着目したのは児童労働の制限という課題であった。この時代の子供は6歳で紡績工場に入ることを許されていたが、労働時間は法律によって制限されず、一般的に一日に14時間、場合によっては15時間、最も酷い場合には16時間の場合が存在した。また多くの工場では十分な換気も行われず、作業着の支給すら行われていなかったことが調査で判明した。この状況を是正するために、法律制定の必要性を感じたオーウェンは積極的な議会への請願活動を行ったが、悉く提案は却下され、議会や宗教などの支配階級に不信の念を高めていった。
1819年に紡績工場法(木綿工場法)が改正され、9歳以下の労働の禁止と16歳以下の少年工の労働時間を12時間に制限することが定められたが、それを管理・監督する監督官制度が無かったために、紡績工場法には強制力や実効性が乏しかったといわれている。またオーウェンは繊維産業全体の労働環境改善を訴えたにも関わらず、法律は綿工業だけの適用に限定された。
オーウェンはこのように弱者救済の社会改革を進めていったが、迷信や宗教などが改革に対して大きな障害になると考えるようになり、それらを打破することが使命であると感じるようになった。1817年にはイギリス国教会などの宗教全般を批判する講演会を開き、「本来、自由で平等であった人間社会に宗教が差別と闘争を持ち込んでいる」と主張し、大きなセンセーションを巻き起こした。自説に傾倒していくオーウェンは危険人物視されるようになり、共同出資者や幼稚園の協力者などの多くが離反し、工場村の経営は行き詰まってしまう。オーウェンは工場村の売却を決意、その資金で1825年にアメリカに渡り、地質学者のウィリアム・マクルールなどの協力を得ながら、インディアナ州にニューハーモニー村という共産村(自給自足型コミュニティ)を作った。この村では共同社会を構成する人々の完全な平等を目的としたが、その思想や信条は千差万別であり、統一感を持たせることは非常に困難だった。それらを束ねるためにオーウェンはより一層、独善的になり、村では内紛が絶えず、最終的には維持が不可能となって、ニューハーモニー村の構築は失敗に終わった。この失敗によりオーウェンは大きな経済的損失を被ることになる。
アメリカでの共産村の構築に失敗したオーウェンだが、イギリスに帰国後もその理想を変えることはなく、労働運動を継続。全国衡平労働交換所を設置して「時間ベース通貨」を発行し、1833年には工場法制定にも貢献した。政府や議会への請願に限界を感じた彼は、協同組合を結成し,それぞれ労働者が生産と消費の協同を推奨し、相互扶助によって自立を目指した。貨幣を廃止して、代わりに労働手形を発行するなど、斬新な試みを提唱、実践し、資本主義との対立を明確にした。
またオーウェンは労働組合運動にも積極的に取り組んだ。1824年当時のイギリスでは団結禁止法は廃止されていたが、経済的には恐慌が起きるなど、労働者の経済状況が悪化していた。1834年にはオーウェンの主導により、イギリス初の全国的な労働組合組織として「全国労働組合大連合(グランド・ナショナル)」が結成された。これは政治的弾圧や内部対立により数カ月で解散したが、社会的な流れは止まらず、その後も労働組合運動は次第に活性化していき、現在のイギリスにおける労働党につながる起点となった。
オーウェンは社会主義初期の思想家・実践家であったが、後に登場したマルクスやエンゲルスからは、『資本家階級として上から社会を改良しようとしたのが改革の本質(労働階級の手によるものではない)であり、科学的な具体性を持たない「空想的社会主義」(ユートピア社会主義)』と批判された。
オーウェンは、晩年には政治運動を離れ、窮乏の中に死去している。
産業革命により生産性を大幅に向上させた製造業であるが、長時間労働、若年就労、不衛生な労働環境、社会階級の分化・対立などの新しい問題を生んだ。工場制機械工業の登場で、経営資本は設備投資に集中し、労働分配は二の次とされ、労働者の権利や教育などに着目する資本家など不在だった時代に、人間の活動は環境によって決定されるとする環境決定論を提唱し、環境改善によって労働者の質を向上させれば工場の生産性を増大させることに繋がると考え、「労働者への負担を減らしつつ、利益を出すことに取り組んだ」ロバート・オーウェンの活動は、初期の生産管理史において注目されるべきであろう。
富の源泉は金銀の価値ではなく、労働者の生産活動によって創出される「労働価値」にあるべきとの考え方は現代においても工場経営に通じる考えであり、再評価されるべき一面を有していると考えている。
今回は生産管理というテーマから少し外れた労務管理という話になったが、この2つは補完的関係にあることをご理解頂きたい。興味のある方はオーウェンが死の前年に出版した自叙伝を一読されることをお勧めする。度重なる失敗にも拘らず、理想を追い続けたオーウェンの生涯には学ぶべきものが多くある。
2022年11月 抱 厚志